自転車がパンクした。家からちょっと走ったところで後輪からパンッという音がして、ペダルを漕ぎ出してからついに「ああ、やっぱりパンクか」と現実を受け入れた。 買ってからまだ三ヶ月も経たないが、空気が抜けてしまったのだろうか。空気入れを借りるため、近くの自転車屋へと駆け込んだ。 新代田の近くの商店街にあるサイクルショップ。その店先におばちゃんがひとり佇んでいて、「あのう…」と小さく声をかけた。 彼女は私の自転車を一瞥するとすぐに「パンク?」と気づいてくれて、やさしそうな人
12/1(日)に東京ビッグサイトにて開催の文学フリマ東京39に出店いたします!去年に引き続き2回目の参加です。今年も出られてうれしい〜🕊️ これまではお客さんとしてコミティアやコミックシティに足を運んでいたので、「東京ビッグサイトで自分の本を売る」だなんて夢のようです。すごい人生! 今回もふたたび、高校の同級生・美帆ちゃんと一緒にエッセイ本を売ります。 去年つくった初めてのZINE『踊り場でおどる』に加え、新刊『こぼれる朝、抱えたひかり』を販売します🌅ブースは【Q
「サービス終了のお知らせ」という恐怖の通達を、わたしはつい先日までまだ頂戴したことがなかった。幸いにも、自分が応援しているアプリやゲームは順調に運営されつづけていて、うわさに聞くその、「かなしくて、どうしようもないこと」と対面することになったのは、思いがけずも小説投稿サイト『魔法のiらんど』閉鎖のお知らせだった。来年の三月にサービスを終了し、カクヨムへ合併されるらしい。スマホの前で思わず「ついにかあ」と声が漏れた。 平成生まれのわたしは、ケータイ小説全盛期の世代として生
ここ三年ほど、自分の着ぐるみを着ているみたいだな、と思いながら過ごしている。 自分が世に出て働いていることも、今の職業に就いていることも、ひとり暮らしをして、家賃を払いながら生活していることも、わたしにとっては全部嘘みたいな話なのだ。 身の丈に合っていないことが、身の丈に合っていないまま、ひとつずつ叶えられていく。 この状態を「置いていかれている」というのか、「追い越している」いうのかよくわからない。 いつになったらこの、ぶかぶかな自分を着こなせるようになるのだろ
最近、知人のInstagramの投稿によく「いいね!」を押す。 以前までは、心のなかで「いいね!」とは思っていても、特にそれが相手に伝わるようにはしていなかった。わたしが「いいね!」と感じたことは自分のなかに残るし、それでいいと思っていたのだ。 それがなぜ変化したのかといえば、これはもう確実に、人からもらった影響である。 ここ数年のあいだに出会った人たちがみんな、わたしの何気ない投稿にも気軽に「いいね!」を押してくれるのだ。 ストーリーズの左端にぷかぷか浮かぶハー
5月の日記です。書かなかったたいせつな時間もある。 5月2日(木) U-NEXTで映画『テルマ&ルイーズ』を観た。細かい内容はいつか忘れてしまうかもしれないけれど、ラストシーンだけは、死ぬまでずっと覚えていると思う。 観終わってすぐに、おすすめしてくれた紘子さんと萌絵さんにLINEを送った。感想を伝えたい気持ちが半分、(久しぶりに遊びたいです)という気持ちが半分。来月に会う約束ができて、やったーと小躍りする。 夜は、高田馬場の居酒屋で友だちのヒロトくんとご飯を食べた
昔から「いい子」を演じるのが得意で、大人になってからも怒られた経験がほとんどない。べつに仕事ができるわけでも、要領がいいわけでもないのだけれど、“まじめそうに振る舞う”ということが、難なくできてしまうほうなのだ。 しかし社会人になってから、結構ちゃんと怒られたことが、一度だけある。新卒で入社した会社での出来事だった。ひとから怒ってもらえた経験が多くない分、かなりはっきりと覚えている。 入社してすぐ、わたしはまったく希望していなかった営業部に配属された。「営業」という
大学四年の春、第一志望だった会社から不採用のお知らせをもらったとき、わたしは実家の台所にいた。 その会社は、高校生、いやもしかすると、中学生の頃からずっとあこがれていた会社で、そこで働き、夢を叶えるために大学を受験し、入学してからもこつこつと努力を重ねていた。そんな学生生活がメール一通であっさりと否定されたのだから、なにが起きたのか、すぐには認識することができず、痛がるまでにすこしラグがあった。 「ああ、落ちたんだな」ということがこころでわかったとき、目頭がじわじわと
4月後半の日記です。元気です。 4月20日(土) はるちゃんと一緒にサカナクションの復活ライブへ行った。彼女とサカナクションを見るのは、大学二年生ぶり。「大人になったねえ」と言い合いつつも、当時の写真を見返すと、ふたりとも今とほとんど同じ顔つきをしていた。 LINEを遡ってみたら、七年前も今日みたいにわたしが電車を乗り間違えて遅刻をしていて、そういうところは変わっていてほしかった、と恐縮する。海浜幕張は思っているよりいつも、ちょっとだけ遠い。 爆音につられるようにし
4月前半の日記です。健康です。 4月4日(木) 会社の人と定期面談をした帰り、近所の和菓子屋をのぞいたら、今日はいちご大福の日だった。ここの和菓子屋では、春になると梅大福が売られはじめ、時々不意にそれがいちご大福に入れ替わるというサプライズがあるのだ。 うれしくなってひとつ買い、家に帰ってすぐに食べた。ふくふくで、ジューシーで、とてもおいしい。思わず母に「今日はいちご大福の日だった」とLINEを送った。 そういえば一月にもいちご大福の日が何度があったのだけれど、買う
そうめんは、夏にだけ食べる。そんなポリシーがあって、普段は食へのこだわりなんてほとんどないほうなのに、なぜかその季節感にだけは気を遣っていた。スイカバーは夏にしか食べられないから数段おいしく感じるように、食べ慣れて、特別感やありがたさが薄まってしまうのが嫌だったのかもしれない。 昔からそうやって、自分の中のポリシーというか、ジンクス的なものにとらわれて生きてきた。たとえば、いいことがあってもそれを人に話すとのちにうまくいかなくなる、とか、雨の日は縁起が悪いからなにもしな
友だちと青山で夕飯を食べた帰り、久しぶりに若い男の人からナンパをされて「お、やったー」とか思う。べつに遊びたいわけではなく、今までナンパについて行ったことがあるわけでもなく、それでも声をかけられるとやっぱりちょっとうれしい。 交差点の信号を待つあいだ、自分からこんなに低い声が出るんだ、ということにびっくりしながら、特に内容のない会話をつづける。 わたしの格好を上から下までじっくり眺めた彼が「仕事?」と聞いてきた。 ジャージの下にフリフリのスカートを履き、小さいショル
夏葉社の文集に随筆を載せていただきました。とてもたのしい一年間でした。 近々、下北沢の古書ビビビで販売されるみたいなので、読んでいただけたらうれしいです。
春の日記です。 3月16日(土) お昼から母が遊びにくる予定で、それまでに部屋の掃除を済ませておきたかったのだけれど、結局10時過ぎに起きてバタバタだった(なのに朝ごはんはしっかり食べた)。 差し入れに湯葉や豆腐、カニやホタテを持ってきてくれて、作っておいたカレーと一緒に食べた。パーティみたいにテーブルの上がいっぱいになって「調子に乗っちゃったね」なんて笑い合いながら、お腹がぱんぱんになるまで食べた。 今年一番の小春日和。せっかくだから外に出たくなって、近所を散歩を
生きるとは、いろんなことを自分の中で定義し直していくことの連続である。 たとえば「幸せ」について、私はよく考える。幼い頃であればきっと、「不幸な要素がない」状態のことをそう呼んでいただろう。しかし年齢を重ねれば重ねるほど、必ずしもそうではないことに気づいていく。 ”不幸”を経たあとの「幸せ」がどれだけ至福であるか、私たちは身を持って知っている。だから今、「幸せ」について定義するのであれば、私は「夜明けがいつもそばにある」状態のことであると言いたい。 いつもそんなことば
大人になるって、何かを失っていくことだと思っていた。だから私はずっと、大人になるのが怖かった。 年齢を重ねるごとに、たとえば夢とか、趣味とか、うつくしさとか、そういう「かつては大切だったもの」を徐々に手放し、つまらない人間になっていく。 近くでそういう大人をたくさん見てきたし、ただ若いからというだけでそういう人から羨まれて、嫌な思いをしたこともたくさんあった。 あんな風になってしまうのなら、大人になんてなりたくない。だからここ数年は誕生日を迎えるたび、なるべく早く