私が私である証明は一体誰がするのか
はじめに
最近の私はというと、BARのお客様に透明感あるねと褒められたり、仕事も忙しかったり、プライベートも情報量が多く、久しぶりに混沌、という言葉が似合うような日々だった。
嬉しいことと言えば友人に、『あなたの文章には色が有る』と言われた事くらいだ。
それは共感覚みたいなものだろうか。
それとも、私と彼女は友人という枠があるから、私の文字は色が有るのだろうか。
と言っても、共感覚というのは普通の人では理解出来ない領域なんだろうな。
それはある種の才能であり、生きていく弊害にもなりうる。
今や共感覚には150タイプもあるらしいので
無いと思ってるだけで、自分にも、貴女にも何かあるのかもしれない。
共感覚ではないが、最近私が触れた『才能』について話していこうと思う。
直近で2つあったのだが、長くなるので今回は人生で初めてお笑いライブに行った話にしよう。
『Dr.ハインリッヒ』というお笑いについて
私は今まで、お笑い芸人のためにライブに行くという経験を得たことがない。
嫌いというわけでは無いが、テレビをつけると流れてくるバラエティ番組を見て満足する、くらいの熱量と言えば分かるだろうか。
この目で、肌感で、お笑いをリアルタイムで感じたいと思ってこなかったのだ。
私は笑う時、そんなに深い事なんて思考したくないからかもしれない。
お笑いという職業は、人を笑わせるために人が笑う構造を理解しなければいけない。
勢い、間、文章構成、表情、何かが欠けていたらお笑いが成り立たないように思う。
漫才、コント、落語とお笑いにはさまざまなジャンルがあるが、全てにおいて必要なものは同じなのではないだろうか。
お笑い一つをとっても、考え尽くされていて、完成されているのだ。
だから人は楽しいと感じる。
舞台と同じナマモノでもあり、作品でもある。
お笑いはお喋りではないのだ。
そんな事をテレビで見たバラエティでは、1ミリも思慮したことはなかった。
ただ笑うためにテレビをつけた。
暇で何も考えたくないけど楽しむための娯楽として、私の中では存在していた。
しかしだ
ある時、週に2回は会っている友人からYouTubeの動画が送られてきた
「Dr.ハインリッヒ、最高だから見て。」と
本心を言うとその時はちょっと乗り気じゃなかった。
私は仕事で疲れていたからだ。
あの時の私にとってのお笑いはまだ、暇で何も考えたくないけど楽しむための娯楽だったからだ。
私はその時、心が暇ではなかったのだ。
しかし、仕事中ちょっと暇な時間もある。
そのタイミングを狙って、私は動画を再生した。
10分くらいの動画が流れる。
想像とはかけ離れた高度な会話が聞こえる。
文学か、哲学か。
これはお笑いじゃない。
でもめちゃくちゃ面白い。思考しないと読み解けない構成の連続で、私は一体何を見ているんだろうという気にさせられた。
友人に、私もこのコンビ好き!なんて安直な感想を返し、東京でライブがあったので行ってみた、という形である。
会場はとてもシンプルな作りであった。
スタンドマイクが真ん中に一つ。
たった一つ、自分たちの証明を全ての観客に伝えられればいいのだ。
それに無駄な演出は不要、ということなのだろう。
その時に、改めてお笑いとはどういう仕組みなのかを考えることになった。
どうやって己の生み出す世界に人を入り込ませ、魅了するのか。
私はお笑い初心者だし、他の芸人と比べることは出来ないし、評論なんて出来ない。
でも、Dr.ハインリッヒのお笑いにはプライドがあると感じた。
彼女らもインタビューで答えているが、お笑いは男の戦場だ。という風潮がある職業のようだ。
女なんて面白くないだろう。と
女性性がこびりつくと、途端に腫れ物のように扱われる。
下に見られる。舐められる。
そのくせ、自分より才能があるとより一層攻撃的になる。自分とは違う生き物だから、自分にはないものをもってズルいとでも思うのだろうか。
そういう苦虫を噛み潰した思いをしたことがあるからこそ、コントの中から彼女らの人を魅了しようという熱い想いを感じるのか。
哲学の世界観と人間臭い想いが乗ってるから、私は好きなのかもしれない。
ライブを見終わった後、彼女らの思惑通り私は魅了されてしまったのだ。
さいごに
人を魅了する作品を作る人がいる。
その作品を楽しむ人がいる。
何かを生産しないと生きている証明にならないのか。
何かを消費しないと生きている意味にならないのか。
そんなことはないだろう。
だって私はここにいる。
紛れもない真実である。
人を魅了する何かを生み出すことは出来ないけど、笑って生きていくことくらい容易いだろう。
心が豊かでさえあれば。