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34歳、天涯孤独になりました。
とは言ったものの
従姉妹はいるし、叔母もいるし
『完全に頼れる血縁者がいない』訳ではないが
育ての親である祖母が亡くなったので
私としてはもう天涯孤独だなぁという気持ちである。
お葬式の前日、そう、昨日のことだ。
私は人生で初めて葬儀場に泊まった。
そして祖母と同じ空間で寝るのはこれが最後だ。
祖母の死を目の前にして、私は人の死を身近に感じることとなった。
もちろん、葬式に参列したことは無いわけではないが、近親者ではなかったり、自分が小さかったので認識していなかったのだ。
死と向き合うというのは、日に日に弱っていく人の機微を見つめるということである。
身体的な変化でいうと、ざっくり言えば人は死が近づくと体の機能が低下していく
栄養を消化できないから、摂取すると嘔吐するし
水分を尿にする腎臓の働きが低下するから、働き以上の水分を摂取するとむくみがひどくなる。
徐々に、この体はもうそろそろ限界ですよ。といったアラートを出してくるのだ。
そして、肺の機能が低下すると、肩呼吸になり
最後に下顎呼吸になり
機能が停止する。
機械のように、それはもう静かに
うんともすんとも言わないのだ
魂がどのようになるかはわからない。
もしかしたらその辺に浮遊して
私達を見下げているかもしれない。
でももう2度と、自分がその人を『生きている』と認知する意味では動くことはない。
以前の記事でも書いたが、祖母はもう長くないと言われたため
お正月は祖母に会いに行き、改めて謝罪と感謝を伝えた。
祖母は脳出血を2回しているから、身体もうごかないし声も出せない。
意思疎通なんて出来ない。
返事は返ってこない。
それでも私はひたすらに喋り続けた。
身体は動かなくとも、伝わると思ったからだ。
自分の言葉に反応して祖母は私の言葉に涙ぐむ。
それはもう全ての私の想いを理解しているように。
表面上の応答など、私達の間では不要だと。
言葉なんて不要だと。
そんなお正月を過ごし、仕事が始まり、また変わらぬ日常が続いていた。
でも、毎日毎日叔母からいつ祖母が危ないと連絡が来るか、不安を胸に抱えていた。
1月18日、それは悲しくもやってきた。
祖母が危ない。
という連絡が入る。
下顎呼吸になったと、もう覚悟をしてください、と。
下顎呼吸になってから数時間後の深夜1時、叔母とのLINE電話で祖母と顔を合わせた。
祖母の名前を呼び、顔を見せた。
画面越しでも、私を見て祖母が泣き始めたそうだ。
ただ顔を合わせるだけで泣く、それはもう祖母もこれが最後なんだと分かっていたように思う。
そんな祖母を見て、私も最後なんだと覚悟をするしかなかった。
その10時間後、1月19日の午前11時に息を引き取った。
享年87歳だった。
あっという間に葬式の日になり
火葬し、収骨した。
通常の骨壷とは別に、喉仏を小さな骨壷に入れ手元供養用として用意された。
それを見た叔母は私に言った。
『この小さな骨壷は貴女が持っていきなさい。
貴女にはその権利がある。』
良い人である。
叔母としても実の母の遺骨だ。
叔母の子供だって2人居て、その2人も祖母が大好きで、大事な遺骨を私だけに渡す選択をするなんて。
でも、みんなが貴女が持っていくべきだ。と本心で言ってくれた。
私はそのみんなの優しさに感謝をし、連れて帰ることにしたのだ。
そんな経緯があり、小さな骨壷が私と共に東京にやってきた。
ただいま東京。そしてようこそ。
今日だけで一生分の涙を流した気がするし、今だに涙は止まらない
泣きすぎて頭が痛いけど明日も変わらずやってきて
変わらずに私は生きていく。
ただ、1人になってしまったという変化だけが誰にも知られずにそこにあるが、私はそこまで悲観してもいない。
何もないからこそ、何かがあることに気づくことができ、
何かがあったことを噛み締める時間が作れるのだから。
きっと昨日の私よりも、今日の私よりも、明日の私は前を向いて頑張っているだろう。
さいごに、祖母へ向けた手紙をここに残しておく。
いつか私が心が折れた時、読み返すべき自分の大事な想いだからだ。
おばあちゃんへ
私は今、おばあちゃんへ最初で最後の手紙を書いています。
なんでこんなにお世話になっていたのに最初なんだっけって悲しくも思うし、この便せんの柄はなんだよ。(サンリオのクロミちゃんの禍々しいデザインだった)って突っ込みたくもあります。
私が3歳の頃、母親が離婚しておばあちゃんの家にお世話になって、19歳まで私はずっとおばあちゃんの隣に居たと思います。
小学4年生から中学2年生まで私は学校に行けなくて心配もかけさせたし、失望もさせたと思う。
悲しい時も、苦しい時も、楽しい時も19年間おばあちゃんが居たから、育ててくれたから、私は今真っ当に生きていけてると思っています。
私には恵まれた親はいなかったので、おばあちゃんが私にとっての父親であり、母親でした。
今年35歳になる私はおばあちゃんの半分も生きていないけど、今だからおばあちゃんがどれだけ苦労して、自分の身を削って私を育ててくれていたか、やっと実感出来ています。
しんどかったと思うのに、一度も弱音を吐かず、人のために生きてきた、高潔な人だと私は本当に尊敬しています。
私自身中途半端に大人になったり、親に愛されなかった弊害で、うまく自分を愛せなくて、私はずっと生きづらい日々を送っていました。
でも、それは大間違いだと、おばあちゃんを目の前にして思うんです。
こんなに愛されてたのに、私はその事実に目を向けなかっただけなのだと。
おばあちゃんから沢山の愛をもらったのだから、私は素晴らしい人間だと思わないと
私を必死に育ててくれたおばあちゃんの想いを無下にしてしまうと、失礼だと思ったんです。
もっと、もっとちゃんとおばあちゃんが生きてる時に愛を返せたら良かった。
もっと、元気な時に私の稼いだお金で美味しいものを食べさせたり、旅行に連れて行きたかった。
もっと喜ばせたかった。
何も返せなくて、本当にごめんなさい。
貴女が私のおばあちゃんで本当に幸せでした。
こんな言葉では足りないほど、本当に感謝しています。
ありがとうございました。