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【フリーテキスト】わすれんぼうメアリー
こちらのテキストは朗読や音声表現など、非営利目的でご利用いただけるフリーテキストです。
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或るところにちょっぴり臆病なルーカスという少年が住んでおりました。
内気で大人しい彼には、友達があまり多くありません。
在る日ルーカスが家に帰ると一人の少女が自宅の前に立っておりました。扉の一点をみつめ、微動だにしない少女にルーカスは少し恐怖心を抱きましたが、このままでは家に入れないので声をかけてみることにしました。
「ね、ねえ君は一体誰?僕の家に何か用?」
すると少女はゆっくりこちらを振り返り、ゆっくりと目を2度、3度ぱちくりしました。
彼女は胸まで伸びた栗色の髪を綺麗に巻いて、見た目はとっても裕福そう。
こんな子が一体どうしてここに居るのだろう。と、ルーカスは思いました。
「私……私はね、うんと」
少女は言葉に詰まると、困ったように唇をギュッと噛んで下を向いてしまいました。
「あ、ああごめんね、その、責めるつもりはなくって」
ルーカスは慌てて少女に駆け寄り、顔を覗きこもうとしました。
近づいて見ると首から名札が下げてあることに気が付きました。そこには綺麗な文字で「メアリー」と書かれています。
しかし、その上には汚い文字で「忘れんぼうの」と付け足してありました。
明らかにその文字は子供がいたずらで書いたように見え、ルーカスはなんだかモヤモヤとしました。
ルーカスは彼女の足元にしゃがみこみ、「……これは君の名前?」と名札を指さしました。
すると彼女はルーカスの指の先をじっと見つめ、しばらくしてから目を大きく見開きました。そうして唇をかみしめるのをやめ、可愛らしい声で「うん」と返事をしました。
「そうだった、私の名前は忘れんぼうのメアリーだったわ」
「…えっと、君の名前は多分、メアリー、だけだよ」
「言われてみたらそんな気がするわ、教えてくれてありがとう。えっと」
彼女は困ったようにまた唇を噛みしめ、頬をほんの少し膨らませました。
「あ……僕の名前はルーカスだよ」
それから、るー、か、す、と言葉を分けてゆっくり何度か繰り返してから、そうだ、と背負っていたリュックからノートを取出しました。
ルーカスは適当に開いたページにさらさらと文字を書いて、それを破り制服のポケットに突っ込んでから満足げに微笑みました。
「これは僕の名札、よろしくね」
* * *
ルーカスが家に帰った頃は日が一番高いところを過ぎて、たくさん時間が過ぎていました。
月が様子を窺うように少しばかり顔を出していて、メアリーの家を探すのにそう時間は無さそうです。
家に入るのはあとにして、まずはメアリーの事情を聞こうと、庭のベンチに彼女を連れて行きました。
両親に事情を説明するにしても、今のところ迷子であることと名前がメアリーだということしかわかりません。それにルーカスの両親はこの時間はまだ仕事に出ているのでした。両親が帰ってくるまでに少しでも彼女のことを知りたかったのです。
「メアリー、君のことを教えてもらえる?」
「ルーカス、私はどうやら物覚えが悪いの」
自分の名札の裏を眺めながらメアリーは言いました。
「それなのに、こんなに裏面はまっ白いのに、ここには連絡先が書いていないの、どうしてなのかしら!」
突然の強い口調に、ルーカスは驚きました。
きっと忘れんぼうなこと以外は強気な性格なのでしょう。臆病なルーカスにとっては苦手なタイプです。それでもルーカスは精一杯の勇気を振り絞って一つ一つ尋ねます。
「メアリー、君はどうしてこの家の前にいたんだい?」
「私がここにいたのは…何故かしら、多分ここをおうちだと思ったからだわ」
「それなら、どうやってここに来たんだい?」
「歩いてきたに決まってるじゃない」
「そうだね、うんと、じゃあ、本当のおうちは?」
「きっとここだわ」
ルーカスは困りました。メアリーは本当にそうだというふうに綺麗な瞳で答えるのでした。
僕だけじゃダメだ、お父さんとお母さんに話そう。
ルーカスはそう決めて、家の中にメアリーを誘いました。
* * *
「それで、この子がメアリーという訳だね 」
ルーカスはどうにかこうにか、メアリーのことを1から説明しましたが、もうくたくたに疲れてしまいました。
原因はメアリーが1つずつ、「それは違うわ!」と否定するからです。
「でも、君は忘れてるんだろ」
ルーカスは言ってから、後悔しました。
酷いことを言ってしまった。メアリーはきっと悲しむだろう。いや、怒るかもしれない。
けれどもメアリーはけろりとして「それもそうね」と言うだけなのでした。
一通り話終えて、お父さんは言いました。
「うん……ルーカス、分かったけれど、今夜はもう遅い。メアリーのご両親は心配するだろうが、うちに泊まってもらおう」
メアリーはそれを聞いて嬉しそうにしました。
「やっぱりここが私のおうちなのだわ」
どうしてそんなことを言ったのか、ルーカスは少し引っかかりましたが、お父さんの言うことはもっともだと思いましたので、ただ黙って頷きました。
しばらくしてお母さんが「夕飯はもうできているわよ」とキッチンの奥から微笑みました。
メアリーはフォークもナイフも上手に使って丁寧に食事をしました。やっぱり、裕福な家の子なのだろう、とルーカスはメアリーを見つめていました。
「とっても美味しいわ、お母様」
「あら、ありがとうメアリー、うれしいわ」
いつもよりにぎやかな食卓に、メアリーも両親も楽しそうです。
だけれどルーカスはすっかり馴染んでしまっているメアリーを見ても、心のモヤモヤが晴れませんでした。
* * *
その夜でした。
ルーカスはメアリーの腕に大きな痣を見つけました。
「痛くないの?」
「分からないわ」
「分からないことは無いだろう?ズキズキしないのかい?」
「言われてみれば少しズキズキするわ」
メアリーはいつも言われてみなければ分からない、と言うのです。
「こんな酷い怪我、どうしたんだい」
「分からないわよ」
話は平行線です。だけれど、ルーカスは確信してしまいました。メアリーはきっといじわるなことをされていて、本当のおうちに戻れないようにされたのだ。だからメアリーは新しい自分の家を探しているのに違いない。
そう思った途端、メアリーが愛しく思われて、どうしようも無い気持ちが湧いてきました。
「ねえ、メアリー、楽しかったこととか、辛かったこととか、そういうのも思い出せないのかい?」
「そうね、さっき食べたお母様のお料理の美味しさなんか、とても鮮明に覚えているわ」
「うーん……そういうことじゃないんだけど……えっと、昔のこととかは?」
「毎日忘れてしまうようなの。覚えているわけがないじゃない」
メアリーは忘れることが当たり前のように答えました。
「そうだよね、ごめんね、こんなこと聞いて」
ルーカスはなんだかメアリーのことをもっと知りたいと思うのでした。
「今晩はもう寝よう、メアリー、おやすみ」
「おやすみルーカス、また明日ね」
* * *
メアリーが家に来てからもう一週間。
小さな村では騒ぎも起こることなく、メアリーがいることが当たり前の日常になっていました。
ルーカスは毎朝々々、メアリーに名前や自分がどうしてここにいるのか教えました。
ルーカスが学校に行っている間、メアリーはお母さんの手伝いをしたり、文字書きをしたりしました。
日々積み重なっていくメアリーの生きてきた証たちは、メアリーに少しづつ自信をつけて行くようでした。
それは、毎朝のやりとりからも感じられ、記憶もなんだか前より長持ちしているような気さえするのでした。
ルーカスはそんなメアリーに徐々に惹かれて行くのを感じました。
最初は怖かったメアリーのことが、好きで好きでたまらなくなってきたのです。
そしてある時、忘れんぼうのメアリーは言いました。
「私はどうやら形が残るものしか信じることが出来ないみたいだわ」
彼女にとって”もの”とは記憶を呼び出すスイッチのようなもの。
つまり、どれだけ今の想いを伝えても彼女は暫くしたら忘れてしまうのでしょう。
ルーカスはなんだかとても苦しくなりました。
「…メアリーの記憶を助けたい。僕の手、温かいの分かるでしょう?これは変わらないよ」
精一杯の勇気と想いを込めた手は少し震えていました。
「嬉しいわ、だけれど、信じることが出来ないの」
メアリーにとっての記憶は信じられないもの。
いくら記憶を呼び戻しても、その記憶自体を信じることが出来ないのです。
そして、メアリーが自分の名前を忘れてしまうのは、彼女自身を信じていないから。
ルーカスは決して理解しあえない彼女と自分の違いを感じ、ただそこに立ちすくみました。
* * *
その夜、ルーカスは夜空を見上げながら静かに泣きました。
「ああ、どうしたらメアリーは記憶を持ち続けてくれるのだろう。普通の恋がしたかった」
ルーカスの恋心はいつからか救済に置き換わっていて、本当のところ、どうしてこんなに頑張っているのか分らなくなってしまいました。
空に瞬く星のひとつが言いました。
「君はメアリーに恋をしているのかい?」
ルーカスは少し考えて「恋しているよ」と答えました。
星はまた言います。
「それじゃあその恋には形があるのかい?」
「目には見えないけれど、確かにこのあたりにあるんだ」
ルーカスは胸のあたりをゆっくりさすってみせました。
「温かかったり、チクチクとしたり、そういうのがこの辺にあるよ」
星のまたたきはだんだんと暖かい色に変わって行きます。
「きっとメアリーも同じものを持っているはずだよ」
「…同じもの?」
ルーカスはぱちくりと瞬きをしました。
「ねえ、お星さま、それメアリーは信じるのかな」
聞き返してみましたが、星はだまってまたたいているばかりです。
それっきりルーカスの問いに返事が来ることは無く、空の色は段々と薄くなっていくのでした。
* * *
それから毎朝、ルーカスはメアリーに好きだということを伝えようかと悩みましたが、臆病なルーカスにはとてもそれが出来ないのでした。
「メアリーも同じ気持ちってどういうことだろう」
あの日、お星様が言ったことを何度も考えてみましたが、答えは出ません。
ただ、メアリーが家に来てからひと月経った頃、メアリーは起きてすぐ、こう言ったのです。
「あなたは私の知ってる人だわ」
初めての出来事でした。いつも不安げに起きてくるメアリーとは大違い。自信ありげなその言葉にルーカスは驚きました。
「僕の名前、わかる?」
「ごめんなさい、名前は分からないの。私は私の名前も分からないわ」
「君はメアリー、僕はルーカス。君は迷子になって、この家に来たんだよ」
いつもと違う出来事がルーカスを奮い立たせたのか、勇気を振り絞って、一言つけ加えました。
「僕は君のことが好きなんだ。君は多分、分からないだろうけど、僕たちはかれこれひと月一緒に過ごしているよ」
「私のことが好きなの?私もなんだかそんなような気がするわ」
「本当かい?!」
そう返事をしたあと、そういえばメアリーは言われたことに対していつもそんなような気がすると答えるのを思い出しました。
少しガッカリして、元気をなくしたルーカスでしたが、ほんのちょっとの希望を信じたくて、次の日からも同じことを伝えるのでした。
* * *
それからまた更に1週間ほど経った日のことでした。
いつもの朝を迎えたはずの二人に、突然の来訪者がやってきます。
メアリーのお母さんを名乗る人がルーカスの家を訪れたのです。
「さあ、メアリー、帰るわよ」
冷たい声に、メアリーは少し怯えているようでした。
「あの、メアリーはどこに住んでいるんでしょうか」
「アナタにもう会うことはないのに、そんなことを言う必要はあるのかしら?」
もう会わない、そんな言葉を言われて、ルーカスはとても悲しい気持ちになりました。
「ルーカス、ごめんなさい、私も会えない気がするわ」
「どうしてそんなことを言うんだい」
ルーカスの声と肩は小さく震えています。
不安そうなルーカスを見かねて、ルーカスのお父さんが言いました。
「失礼ですが、かれこれ1ヶ月以上、メアリーはうちに居たのです。あなたはその間、何をされていたのですか」
「探していたに決まっているじゃない。まさかこんな田舎にいるなんて思わなかったけれど」
やっぱりメアリーは裕福な家の子なのでしょう。メアリーのお母さんはそう言うとメアリーの腕を無理やり引っ張って連れていこうとしました。
メアリーは唇を噛み締め少しだけ抵抗して、それからすぐに諦めて1歩前に進みました。
「メアリー、僕は君が好きだよ」
「……私もよ、ルーカス、なんだか、それだけははっきりしている気がするの」
「さあ、いいから行くわよ」
最後に見たメアリーの瞳は潤んでいて、とてもつらそうに見えました。
「メアリーは幸せになれるかな」
「……ルーカス、きっとメアリーはあなたと出会えて幸せだったわよ」
お母さんの声が優しくて、ルーカスはただ泣くのでした。