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読書メモ|世界は経営でできている|岩尾 俊兵

 こうした怪しげな先生の信者になって投資にのめり込むひとは「株価の上下は乱数だからいくら勉強しても予測はできないのではないか」などといった頭の固い話には耳を貸さない。(略)重要なインサイダー情報や高度な企業価値分析情報がSNSのグループという機密保持力皆無のネットワークでまわってくるわけがないということまでは頭が回らなくなるらしい。

1.貧乏は経営でできている

 母子関係は基本的に「私の子はいい子」の発想が強く(反対に父子関係は「いい子は私の子」という志向がつよい)(略)子でいることお自体が母への価値提供=幸せの源泉になっているため、子は家庭内で顧客満足を求めて問題解決するインセンティブを持つ必要がない

2.家庭は経営でできている

 まず、だれしも恋愛において重要視する要素を持っている。(略)性格、話の面白さ、収入、顔、体型、ファッションセンス、趣味、金遣い、家事への積極性、マザコンかどうか・・・などなどだろう。これらの要素はそれぞれ独立だとする。このとき、「ある人物が(正規分布に従う十分大きな母集団を構成する)ひとつの要素において平均以上の性能を発揮できる確率」は上位半分に入る確率と等しいから当然二分の一だ。次に「当該人物が、先ほどの要素に加えて、別のひとつの要素において平均以上の性能を発揮できる確率」は二分の一✖️二分の一である。こうして計算すると先ほどの10も要素すべてで平均以上の性能を発揮する人物は1024人に1人しかいない。このように「あるひとが自分にとっての普通のひとである確率🟰「二の自分がこだわる要素数乗」分の一だからである。(略)こだわり要素が20個なら100万人にひとりしか「普通のひと」は存在しない。

3.恋愛は経営でできている 

 強調箇所が多くなればもはや何も強調していないのと同じである。(略)注意を向けるべき場所が多くなりすぎれば、注意の総量は変わらないのだから、ひとつひとつに対する注意の量は減り、かえって注意散漫になる
 だから、著書の最初に書いてあることが著書の終わりを知らないと一切理解できないことなどはざらにある。(略)そのため難解な本は全体を理解してから2回目に精読する方が理解しやすい

4.勉強は経営でできている

 雑食のサルは、動物というエサを得られる機会が比較的すくないことから、常にマウンティング行動をとって上下関係を確認しているとされる。そうしなければ、狩猟を終えるたびに肉という限りある資源の配分をめぐって激しい争いが巻き起こり、種の生存が脅かされるからだ。一方で、そこいらじゅうに無尽蔵に生えている植物を主に食べるゴリラはこうしたマウンティング行動はとらない。それどころか、自分が食べている植物を欲しがる他のゴリラがいたら、惜しみなく分け与えるそうだ。
 自己愛が強いひとは、自分と何かが共通する人に対して「少なくとも自己との共通部分は尊敬できる」はずだ。そうでなければ自己愛が弱すぎる。そして自分から相手を尊敬すれば、少なくとも相手は「自分を理解してくれた」という一点で自分を尊敬してくれるはずである。こうして相互尊敬がうまれ友情が育まれる。友情とは相手のなかに自分の分身をみつけ、自分の分身を愛することを通じて自己愛から他己愛へと至る感情なのである

5.虚栄は経営でできている

 感受性の強さを心労だけに結実させない経営のためには「最終的なゴール=目的を常に意識する」必要がある。(略)目的だけに集中して、他に気になることがあっても「気のせいか」で済ます。相手が怒っているのか助けが必要なのか、など気になることは本人に直接聞いたあとに心配するよう心がけるといった手があるだろう。

6心労は経営でできている

  さらに「就活時応募書類乱射型学生」の周りには、ほんの数社の入社試験しか受けない「三年寝太郎型の学生」がいるものだ。こうした学生は先ほどと反対の論理で、実は一社当たりにかけている時間・労力が大きいという利点があることと、持ち前の図太い神経によるなんともいえない大物感から案外にすぐ内定がもらえたりする

7就活は経営でできている

 だとすれば、「仕事と名のついているだけの何か」を減らし「真の意味での創造的な仕事」の割合を増やせば、驚くべきことに「世の中に提供できる付加価値が増加しつつ仕事もたのしくなる」というパラダイス的な状況が得られるわけだ。だが、現実の会社生活においてこれに気づかない人があまりに多い。だからこそ、もう終わってしまったことを責めるだけの会議のような無意味に極致に手を染めてしまう。(略)怒ったところで事態が好転することはない。
 「人は多ければ多いほどいい」と錯覚する。そして、増えすぎた人員に仕事の進め方を説明するうちに日が暮れていく。
 人はマニュアルになかなか従わない

8仕事は経営でできている

 他者の怒りに対処するのは大変だ。(略)そこで大抵はどちらか大人な方が(必ずしも年齢が上とは限らない)怒りを鎮火させる役割を担う
 そもそも怒っているひとは脳という「人間が持つ最も有力な器官」を「怒りという何も生み出さない活動」に浪費してしまっている損なひとだ。そうした人は脳のメモリを怒りに占領されてしまうため、脳の活動時間と活動密度が低くなり本来の能力を発揮できていないだろう。(略)「短気」な人は「長期」の利益は得られない。
 この世に絶対的な悪人は存在しない。善の対象範囲が狭すぎたり、こちらとは違ってたりするだけだ。(略)相手の善の範疇を大きくしていくよう働きかける方が成果は大きい。(略)あらゆるハラスメントと通称されるもののなかで、ひとつだけ許されているものがある。それはロジカルハラスメントだ。冷静に柔和に明快に論理をつかって相手を説得することだ。

9憤怒は経営でできている

 たとえば小さな自尊心を満たすために相手を責める。あるいは罵倒した結果として、相手から自分への尊敬の念が失われていく自尊心も満たされず、他者も傷つけ、理解者も失う。
 孤独を克服するには絆と共感と連帯を自ら創り出す必要がある。

11孤独は経営でできている

 その高度経済成長貢献怒鳴り人は(略)こうしてまたひとつ怒鳴り人の出入り禁止場所リストが更新される。(略)こうした人の多くは家庭において企業のダメ管理職のようにふるまっている。配偶者や子の行動に対して命令はするが責任は取らない。明確な指示を示さずにこれがダメだ、あれがダメだと終わったことを責め続ける。当然ながら疎まれる。居場所がなくなってしまうのである。
 こういったひとたちは、自らの居場所を保持するために後継者を育てない。もちろん形式的な次期社長を指名する。しかし後継者に肝心のことは教えないし株も渡さない。(略)
 老後をめぐる人生経営の失敗に共通する特徴の2つ目は、思いやりと居場所とを「奪い取るもの」だと勘違いしていることである。

12 老後は経営でできている

 政権や王朝は常に危機に対峙しているのである。危機そのものが政権、王朝を滅ぼすと考えるより、むしろそれらが日常的に直面している危機に対処できないほど落ちぶれたときに「危機という最後の一押しで滅びる」と考えるほうが自然だろう。
 古今東西どんな国家でも官吏は増税を大使命だと勘違いしているかのようにふるまう。(略)「自分たちの使命は増税ではなく財政健全化だ」と堂々と主張する。(略)仮に国民を重税で苦しめた揚げ具に財政健全化に成功するとして、そんな国を望む国民はいないだろう。(略)一般市民はなんとかしてその税を逃れるための方法を編み出す。
 弱体化した末期症状の政権は、さまざまな危機にたいする無為無策無能ぶりをさらけだす。それもそのはずで、世の中が変化し続けていて、適切な対処方も変化しているのに、権力を得るひとを選抜する方法はかわっていないためだ。
 法律もまた増改築に増改築を重ねた迷宮型建物のように、複雑怪奇になっていく(特に租税法に顕著だ)条文は「例外の、例外の、例外の、例外の・・・・・」という規定ばかりになる。こうして、本当は「だれでも理解できるものでないと、誰も守れない」はずの法律が、法律家に高い料金を支払って解釈してもらわないと理解不能なものになっていく。これで法律が守れたら大したものである。

15 歴史は経営でできている

 世界から経営が失われている。本来の経営は失われ、その代わりに他者を出し抜き、騙し、利用し、搾取する、刹那的で利己主義の俗悪な何かが世に蔓延っている。本来の経営の地位を奪ったそれらは恐るべき感染力で世間に広まった。(略)本来の経営は「価値創造という究極の目的に向かい、目標と手段の本質、意義、有効性を問い直し、目的の実現を妨げるさまざまな対立を解消して、豊かな共同体を創り上げること」だったはずだ。
 我々は誰しも強みと弱み・得意と不得手をもつ。そして「誰かの強みで別の誰かの弱みを補完する」という価値創造のジグソーパズルを解き続けることで全体(システム)としてより高い能力を発揮できる価値ある状態を作り出したのである。
 
金銭、時間、歓心、名声など、人生における非喜劇は「奪い合い」から生まれることがわかる。(略)価値がないものや限りなく創り出せるものは奪い合う必要がない。
 誰もが別の誰かのせいにし、自ら責任をとるひとはどこにもいないかのようだ。まるで日本の戦争責任問題である。
 しかし、無限の価値創造を目指して、障害となる対立を取り除いていけば、社会問題の数々にも少なくとも解決の糸口がみつかる。どんな問題にも一旦は「幸いにも◯◯だ」とよい文脈に変えてしまい、その文脈を利己的なものから利他的に変えてみるだけでも、価値創造が絶対にできない対象などないことがわかる。

おわりに 人生は経営でできている

こういう近江商人的な考え方が好きです。おっしゃっていることすべてに共感し、それだけでもすっきりするのに、独特の語り口に癖があり癖になります。どうも既視感があり、なんだろうと考えていて、奥田先生の「伊良部シリーズ」なんじゃないかと思っているのですが、イン・ザ・プールや空中ブランコを読んだのが昔すぎて確信が持てずにいます。
 安宅さんの「イシューから・・・」にも似ています。目的はなんだっけ?イシューはなんだっけ?と我に変えるのは大切。豚汁の材料(だけ)買いに行ったはずのスーパーで豚肉だけ買うの忘れて帰ってくるのは私だけじゃないと思いますよ。
 各章についてる「参考文献」も知的なおふざけが楽しく、タイトルはパロディでできいるらしいのですが、きちんと関連しつつモチーフになっている本や映画のセレクションにもセンスを感じます。

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