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読書メモ|わたしの土地から大地へ | セバスチャン・サルガド

 いい農園だった。父は地主で、小作人を雇っていた。小作人はそれぞれ動物を飼っていて、ちょっとずつ土地を耕して、それで家族を養っていた。作物の一部を父に納めれば、残りは彼らのものだった。金持ちはいなかったけれど、貧乏人もいなかった。こういうかたちの土地利用は、ブラジルには16世紀から存在していた。
 社会のなかの不平等が目に入ってきた。私自身はそれまで不平等というものを意識していなかった。わたしの出てきた世界は、市場経済の仕組みとはまったく縁がなかったから。金持ちも貧乏人もいなかった。(略)住むところ、食べるもの、着るもの、家族を支えていく上で必要なものぐらいは全員が持っていた。工業のしくみができて、田舎の人たちは都市に出てきて、大部分は貧乏生活に転落した。
 マクロ会計にすごく関心を持った。長期的なプロジェクトを手がけてみたいと思った。ある種の変数をコントロールしてやれば、経済に本格的な動きが起こせるはずだというモデルだ。サンパウロ大学で修士に進んで、奨学金もとれた。(略)アメリカの大学から来た人もいたし、ブラジルの大蔵大臣やブラジル中央銀行総裁の授業にでたこともある。国が抱えている山のような必要に応える中核集団を養成するのが目的だった。
 1964年、クーデターが起き、軍事政権が確立されて、ブラジルの軍人たちは共産主義の脅威を盾にとって自分達の行為を正当化した。(略)米国が秩序の維持を口実にしてCIAの手引きで不当にラテンアメリカに干渉していることに対しても大きな反対運動があった。激しい怒りをおぼえて、レリアと私はいっそうラディカルに政治に飛び込んでいった

2.わたしの母なる大地

 フランスは人権と民主主義の祖国だった。共産主義と米国の中間の、第三の選択肢だった。
 当時、わたしたちの生活は隅々までマークされていたことがわかった。友達だと思っていた人たちに告発されていたんだ。(略)結局わたしはフランス国籍をとることになった。ただ、それと並行してブラジル外務省を相手取って訴訟を起こした。市民に対してパスポートの発給を拒否するのは憲法違反だからだ。私たちの勝ちだった。これが前例になって、みんな弁護士を雇って政府に立ち向かった。
 かつては追放されたり、拷問されたり、殴られたりしていた人々が、いまではブラジルで権力の座に返り咲いている。(略)ルーラは異議申し立て運動の渦中にいて、プロレタリアだったから、わたしたちとは違っていちどもブラジルを離れず、逮捕され迫害をうけたけれど、その彼が、ブラジル史上もっとも偉大な大統領になったこと。最低生活基準以下の暮らしをしていた3500万人もの人たちを中流まで引き上げたのはルーラだ。現職のジルマルセフも同じ。彼女も投獄されて、殴られて、拷問された。
 振り返ってみると、ファシズム、ナチズム、ソ連の共産主義、こういう体制は持ちこたえられなかった。まるで自然の秩序とでもいったものがあるような具合だ。現実より大きな何かがあって、現実に命令して、もっともっと立派な方向に向かわせている。つまるところ正義というものが存在しているんだという証拠だ。

3.よそではなくフランスで

 生協の倉庫係の仕事を辞めて、学生相手に現像の代行をはじめた。これですこしはお金が入ってくるようになった。(略)ちょっとしたルポの依頼がはいってきた(略)だんだん写真家になれるのじゃないかという気がしてきた。(略)その前にまずは博士課程を修了してしまわなくてはいけなかった。
 世界銀行とFAOのチームと協力してキヴ地域の大規模茶葉農園にできそうな場所を選定した。このあたりの土地はけたはずれに肥えていて、標高も完璧だった。(略)それから向こう30年の収益性の分析をした。家族3,200世帯を雇用して、各世帯が自分達の所有する猫のひたいほどの土地で生産をする、というマクロ経済計画だ。1991年「人間の手」プロジェクトのためにルワンダに戻ったとき、この農園はみごとに成長していた。規模は最大ではなかったけれど、質は最高だった。ロンドンの市場では最高値をつけていた。経済学者として働いたおかげでわたしはアフリカを発見することになった。この大陸でわたしは自分の楽園を再発見した。

4.写真にパチリと開眼

 ルワンダやブルジンやザイールやケニヤやウガンダから帰ってくると、報告書を書かなければならなかったんだが、旅の最中、そんな書類より、現地で写真を撮っているほうが、ずっとしあわせな気持ちになれることに気がついた。(略)ボートのなかに寝そべって何時間も経済学をやめて写真をやりたいというわたしの気持ちを話し合った。1973年「経済学はやめる」決心した。29歳だった。レリアも賛成してくれて、将来有望なキャリアを捨て、フリーの写真家になる道を選んだ。(略)私たちには目標があって、なにも不満はなかった。部屋にシャワーはなかったけれど、友達はたくさんいたから、体を洗うときは彼らのうちに行っていた!
 大臣の顧問の写真とかスターのポートレートとかをやれば余裕のある暮らしができた。(略)わたしが報道していたような出来事はあまりお金にはならなかった。といってもわたしたち小家族を養う役にはたったし、それでじゅうぶんだった。
 撮影のたびに、毎回とてつもない悦びを感じている。経済学を学んだおかげで、私はこれを長期的なプロジェクトに転換させてくことができた。

5.アフリカ、わたしにとってのもうひとつのブラジル

 「ソ連のことは忘れたほうがいいよ。ここはもうおしまいだ。官僚組織が民衆の手から権力を取り上げてしまった。闘いたいのなら、フランスで移民と肩を並べて闘うのがいい。」体制を内側から生きたこの人が、もう、国際共産主義運動を信じられなくなってしまっている。(略)そこでライプツィヒ(当時東ドイツ領)に出かけることにした。(略)共産主義がどういうものなのかが感じられた。わたしたちにとってはロマンを体現していた体制が、感受性も優しさも剥ぎ取られたものなんだっていうことがわかった
 フランスには社会の不正に取り組む闘争的キリスト教というものがあるからだ。これはわたしの世界だった。避難民や低開発諸国の問題に取り組んでいたわけだけど、私自身が低開発国の出身だった。わたしはこういう搾取されている世界を見せようとした。その尊厳ある姿を。
 ルワンダで国際コーヒー機関の仕事をしながら、人足たちが1日に12時間も猛暑のなか裸足であくせく働くのを目にした。受け取っている給料では、寝泊まりすることも、医者にかかることも、子供に教育を受けさせることもできていなかった。(略)輸出のときに買い叩かれるので、かえって損がでていた。まるで、彼らがお金を払って、わたしたちにコーヒーをのんでもらっているみたいな状況だった。とてつもない不公平が行われていると感じた。

6.若き活動家、若き写真家

 わたしの写真はどれも、わたしが強烈に生きた瞬間のひとつひとつに対応している。(略)わたしのなかには猛り狂う気持ちがあって、この場所に連れて行ったからだ。

7.写真 わたしの生き方

 インディオたちは偉大な文化を持っていたが、かなりの部分はわたしたち西洋文明の手で殺戮されてしまった。いつでも警戒心が強い。
 家を何ヶ月も留守にするので、妻が恋しくてしょうがなかった。

8.「別のアフリカ」

 どんな写真だって、単独では世界の貧困を変えることなんてできっこない。それはそうなんだが、文章や映画や人道支援・環境団体の行動全体と合わされば、暴力や排除やエコロジー問題を告発するというような、スケールの大きい運動に加わる。見る人の感受性を高めて、自分達は人類の運命を変える能力を持っているんだ、と気づかせるのに一役かう。
 独裁の続いていた1964年から1984年の間にブラジルの地方小土地所有者の大半は、「魅力的な価格」で巨大農業企業に売り払ったんだが、超インフレに直撃され、不安定な生活を送っていた。

9.苦境にある世界のイメージ

 この時期はわたしの人生のなかでもとても好きな時期だった。働いている最中の人のところに行ってみると、生産すること、ものをつくることに誇りをもっていたから。 
 だからやっぱり、どんな製品を作っているかによって人間がつくられるわけだ。
 米国南部のダコタ州にある屠殺場にいくことになった。ひどいものだった。1時間にブタを千頭も、1日に牛を2千頭も殺すんだから!労働者たちは窓のない部屋のなかで、同じ血生臭い動作を休まず繰り返していた。匂いがひどかった。写真を撮るのは不可能だった。吐いてばかりいた。金輪際ホットドックは食べられなくなった。

11.「人間の手」

 二十一世紀の幕開けに、人類という家族を、連帯と分かち合いにもとづいて築き直す必要があるんだということを見せようとした。
 移民と違って、こういう人たち(難民)はよりよい暮らしを夢見ているわけではなかった。迫害や戦争をおそれて、住んでいた土地から逃げ出さなければならなくなったわけで、よくもわるくも状況に合わせていこうとしていた。
 戦争好きで嘘つきな指導者たちにけしかけられて、お互いにいがみあっていた。もとはユーゴスラビア人だった何百万の人たちが、クロアチア人、セルビア人、ボスニア人になってお互いに敵対して、住んでいた場所を逃げ出さなけれはならなくなっていた。迫害を受けたジプシー、アルバニアやコソボから大量の人が流出するのを見た。どこも似たような状況だったから、だんだん気が滅入ってきた。(略)こんなにたくさんの憎しみ、残虐行為。ヨーロッパでまだ民族粛清が起こりうるなんて考えもしなかった。バルカン半島の悪夢が予想できなかった。それに最後にアフリカで発見した虐殺や民族殺戮はほんとうにむごたらしいもので、パリにもどってきたときには病気になっていたほどだ。人類の未来が深く心配になる。

13「EXODUS 国境を超えて」

 途中の道には、手足がなかったり、バラバラに切り刻まれたりしている死体がうずたかく積み重なっていた。休憩で車を停めたときにはバナナの木に山のように覆い被さった屍骸の間を歩いた。(略)この戦争は民族を口実にして起きた。ただ、それ以外の要素もある。貧困の歴史、搾取の歴史
 学校をつくるための援助じゃなくて、憲兵隊をつくるための援助だ。(略)フランスは定期的にルワンダに軍用品を運び込んでいた。
 あの茶葉農園には最初はジョゼフと、そのあとジュリアーノと一緒にいった。たくさん笑って実にしあわせな気持ちだった。行ってみるとすべて焼き払われていた。あそこの茶葉は植えるのも摘むのもあんなに難しいのに、あとかたもなくなってしまっていた。焼けこげた地面には、そこらじゅう骨が転がっていた。知り合いの、あんなに楽しい時間をいっしょにすごしたひとたちの亡骸だったかもしれない…

15 ルワンダ

 わたしはルワンダを愛している。ルワンダの労働者たちや農園、国立公園の美しさを撮ることにこだわっているし、同じように残虐行為も撮る。(略)このおろそしい時代、ありったけ心をこめてルワンダを撮った。みんな知っているべきことだと思った。自分の時代の悲劇から身を守る権利なんか誰にもない。わたしたちみんな、ある意味で、自分が生きるのを選んだ社会のなかで起きることがらに対して責任があるからだ。

16 死に直面して

 この事実を受け入れられなかった。気分が落ち込んで悲観主義にハマり込んだ。経済や社会や政治の大変動のせいで、地球がこんな状態になってしまったことにも絶望していた。こんなにもたくさんの木が切り倒されて、風景が台無しになって、生態系が破壊されている。そこでひとつプロジェクトを立ち上げようかなと考えはじめた。大気汚染や森林破壊を告発するのが目的だ。レリアがすばらしいアイデアを思いついた。わたしは1990年、両親からブラジルに土地をもらったが、すっかり荒れ果てていた。ここに植林するというアイデアだ。(略)「セバスチャン、また、木を植えましょう。」わたしたちに得になることは何もなかった。住んでいたわけじゃないし、木が一本いくらするのかも知らなかった。(略)レナート・デ・ジェズスに会いにいった。生態系の回復で有名な技師だ。わたしたちの土地の調査をして、半年後にプロジェクト案を出してきた。2500万本の木を再植林する。多様性にも配慮しないといけなかった。違う木が200種類必要だった。
 動物もたくさん戻ってきた。ジャガーまでいる。(略)食物連鎖が復元されたということになる。

17 大地学院 現実となったユートピア

 FUNAIはインディオが同意すれば訪問の許可を出す。(略)こういう部族は伝染病知らずだけど、わたしたちが病気をもっていってしまうおそれがある。(略)完璧に健康な歯をしているんだけど、わたしたちの食べている砂糖が入ってくると虫歯になってしまう
 わたしたちはこういう人たちの穏やかな性格に強い魅力を感じた。暴力をしらないし、喧嘩なんかまったくしない。さらにびっくりするのは嘘も知らないということだ。(略)この部族では「だめ」という言葉は存在しないし、気持ちを抑え込むこともしない。

20 起源への敬意

 9.11が起きて写真家の生活は大きく揺さぶられた。空港にたくさんセキュリティゲートが設置された。フィルムは3-4回X線を通すと、グレーの諧調がやられてしまう。(略)自分のフィルムがどうしたってダメになることもわかっている。
 発売されたばかりの一眼レフカメラをつかえば超高画質が得られると保証してくれた。(略)28キロの小型ケースを持っていくかわりに、今ではメモリーカードを700グラム持ち運ぶようになっていた。現場にはPCもHDも持っていかない。写真を撮るときはファインダーしか見ない。(略)環境汚染も少ない。昔は毎日定着液を捨てていた。何百リットル流したことか!PCとインクジェットプリンターを使えば、汚染は最小限で済む。

21 わたしのデジタル革命

白黒のイメージをみるときは、イメージがわたしたちのなかに入ってきて、消化して、意識しないまま色付けをする。白黒は抽象物だけど、みる人のなかに摂り入れられてイメージを自分のものにする。白黒のこういう力はほんとうにすごいと思う。

23 白と黒の世界

ネネツ族はおそろしく苛酷な(マイナス30度とか40度とか)気候のなかでぎりぎり最低限の暮らしをしている。(略)トナカイが疲れないように(荷物は)軽くしておなかないといけない。このひとたちは寒いところに住んでいるけど、ごく限られた数のものだけ持って暮らしている。といっても彼らの暮らしは強烈で充実していて強い感動がある。わたしたちは自分を守るために財物をやたらと増やして、おかげで生きるということを忘れてしまっているんだから。もう、自然のことも他の人たちのことも見つめない。だけど、道標や本能や精神性をなくしてしまってはいけない。
 どこかの土地を開拓したら、あとは休ませてやらないといけないんだということをよく知っている。(略)インディオがある場所を去ると、何百年か経って土が再生するまでは戻らないんだそうだ。(略)インディオはジャガーを嗅ぎつけることができるし、蛇が来るのもわかる。わたしのほうは何も感じないし、何も見えないのに。

24 ネネツ族のもとで

 わたしたち人間は攻撃的な存在だけども、問題を解決するには21番染色体に処理を加えるのがいいかもしれない。ダウン症のひとは三本ある。ダウン症のひとには攻撃的なところがない。ときどき怒ることはあるが、自分に対して怒ってるんで、他人に怒りを向けることは絶対ない。一度もみたことがない。
 レリアとセバスチャンは外出しなさすぎだ、と言われる、だけど、わたしたちはロドリゴと暮らしている。障害児がいるというのはそういうことだ。(略)最大限それを活かさなくちゃいけない。

25 わたしの一族

 わたしたちがつくりだす二酸化炭素を全部取り込むことができるのは木だけだ。酸素に変えることができる機械は木しかない。森はわたしたちの汚染を取り込んで木に変える。すごいことだ。森を植えて最初の20年間、これが1番二酸化炭素を吸収する率が高くなるときだ。

結び

 だから写真の背景にあるすべての文脈を知るには精緻な解説が必要であり、写真集のキャプションはイメージの言語的な補遺として、重要な役割を果たしていた。わたしの役割はほとんど新書一冊ほどにも匹敵する写真解説の部分を翻訳して、終焉しつつある人類の大規模な肉体労働の景観が持つ歴史的かつアクチュアルな意味を言葉によって媒介することにあったのだ。
 これらの風景は、あるいは長く続かないかもしれない。恐るべき破壊の音が静かに忍び寄っているのが聞こえるような気もする。だが、黙示録におののくのではなく失われる「いま」の彼方に、新たな希望を投資し、それを強く求める義務が人類にはあるはずだ。
 とりわけ内乱と殺戮のルワンダでの長期にわたる取材が、彼の内面をどれほど傷つけ、人間性への信頼を喪失され、意識の崩壊の瀬戸際まで追い込んだかは本書が証言している通りである。

解説 サルガドの「大地」とともに 今福龍太

ジェイソンヒッケルの本で知りました。ほんとうに素晴らしいひとたち。秋晴れの午後、ウイスキーを飲みながら、サルガドの写真集を眺めて泣きたい。

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