正しい30代
昨日、有難いことに30歳になった。
長く長く続いた、トンネルの中で、かすかな光を見つけては、転びながら駆けていくような20代。
はっきり言って、キラキラしたものだけでは構成されていなくて、泥のような場所をずっと足掻いていた気さえする。
もちろん、楽しかったことや、嬉しかったことも沢山あった。サークルで行った合宿で、花火をしたこと。空きコマに部室でスマブラをして、盛大に負けたこと。色んな恋をして、色んな景色を見たこと。すべて大切な宝物だ。
そんなかけがえない青春の中で、「大人」という言葉と、格闘し続けていた。今が青春だということに、あまり頓着しないまま。
この記事にも、それは如実に現れている。「大人」と呼ばれることから逃げたくて、「大人なのに子供部屋にいること」がたまらなく嫌で、ついに家出までしていた。
多分僕のなかでは、「大人」とは強くて、しなやかで、立派な人を指していたのだ。
本当は、「真の大人」なんて、存在しないのに。
それに気付いたのは、やはり30歳になったからだった。
昨日、ディズニーシーに行った。夜のパレードで、「夢や願いは、諦めずに信じれば必ず叶う」と高らかに歌われていた。
はたして、そうだろうか?それは、おとぎ話の中の話であって、現実はそう甘くないんじゃないか?
そんな達観してしまった気持ちと同時に、相反するひかりが生まれたのを感じた。
例えば、「幸せになりたい」のが、1番の願いだったとしたら、それは諦めずに進むことでしか得られないものだ。
花火とレーザービームを見上げながら、僕は自分自身に問うた。
君の願いって、なんだ?
答えはすぐにかえってきた。
「正しく生きて、天寿を全うしたい」
「幸せを感じながら、生きたい」
火の粉が舞う藍色の空は、とても現実とは思えない。でも、その願いは、あまりにも現実だ。
多分、僕は「正しい」という事に固執している。単に「悪いことをしない」という意味ではなく、模範的で清く、まっすぐなこと。
じゃあ、正しい30代って何だ?
もしかしたら、Googleで検索したら、たくさん答えらしきものは提示されるかもしれない。
例えば、自分の時間を大切にするとか、過剰な自意識や自信を持たないとか。
でも僕はどうしても、調べたくはなかった。
それこそ自分の頭で考えないと、「正しく」ないからである。
「大人」が実は単なるレッテルや区分に過ぎないことに、ようやく気がついたのに、今度は「30代」に頭を悩ませている。
愚かだな、と思いながらも、理想を追求してしまう。
ディズニーシーの帰り道、蝉が死ぬ瞬間を駅のホームで見た。
懸命に蛍光灯へと飛んで、飛んで、そしてふっと蝋燭が消えたように落ちた。ぼたり、という音を聞いて、素直にこう思った。
命って、儚い。
そうだ。命は、僕は普段ぞんざいに扱っているけれど、本当はとても儚い。あっという間に、あるいは唐突に、いつかは誰もに終わりがきてしまう。
そして、こうも思った。
「3日目の蝉は、今3日目であることを、思い悩むだろうか?」
多分、そんなことはないだろう。
必死に、必ず死ぬと分かっているから必死に、ただ朝から夜まで鳴き続ける。命を、つなぐために。命を、つかうために。
僕は、「正しい30代」へのこだわりを、空のペットボトルと一緒にホームのゴミ箱へ捨てた。
だって、もったいないじゃないか。
「今」の連続が過去になり、未来になる。
だったら、「今」を生きるだけだ。
僕の命が消えてしまうまで、必死に生きよう。
そう決意した、30歳の誕生日だった。