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オペラ座の怪人に見る通過儀礼

先日、劇団四季のオペラ座の怪人を観劇した。
大きな劇場は満員で、立ち見席まで埋まっているようだった。2時間30分は、息を飲んでいるうちにめくるめく展開され、気付けばカーテンコールの熱狂的な手拍子だ。圧巻という言葉がぴったりなほど、僕は圧倒された。単なる「ミュージカル」の枠におさまらない、徹底された「架空のリアリティ」をそこに見た。

この先にはあらすじや概要が含まれるため、観る予定があって回避したい方は戻られることをおすすめする。

まず、このオペラ座の怪人という演劇は、何をテーマにしているかという意見は人によって大きく異なるだろう。
ラブロマンス、悲劇、怪人という魅力的なヒールの物語……どれもたしかに、その通りである。

どの人物にフォーカスするかによって、それぞれにテーマ性が変わる。クリスティーヌを主人公と見るのか、怪人を主人公と見るか。
ただ、二つに共通している事がある。
それは、「通過儀礼」の物語でもあるという事だ。広義での、成長物語と呼ぶこともできるだろう。

まず、クリスティーヌは幼いころから空想癖や「音楽の天使」への強い憧れがある。さらに、彼女の父親に対する慕う気持ちは、やや一般よりは強いものだと見受けられる。それらが決して悪いことという訳では無いのだが、一括りにしてしまえば彼女は「子供」なのだ。
父親の庇護を求め、天使の加護を求め、そして幼なじみのラウルには助けを求めている。
愛するという主体的な感情や行動ではなく、「愛される」「守られる」ことを主軸にした人物と言うこともできるだろう。

一方の怪人は、醜い容姿ゆえに母にも捨てられ、周囲にも劣悪な態度を取られ、愛されたことがない。見世物小屋で、奇形として人々の嘲笑や軽蔑、あるいはインスタントな同情を見せつけられて、人間に対して憎しみを抱くのも頷ける。
彼は愛とはなにか、どんな感情で、どんな温度なのか、全く未知なのである。

しかし、彼は執着という形ではあるが、愛すること自体はしているのだ。それは音楽や芸術を愛すること、そして音楽の才能を持ったクリスティーヌを自分のものにしたいという渇望。
だからこそオペラ座の席は彼のために空けておかなければならないし、アドバイス(というよりは脅迫だが)の手紙を送り続けている。彼は心底芸術を愛していて、理想を常に追求している。

それでも怪人の抱く愛は、あまりに度をこした独占欲や支配欲求であるという致命的な欠点がある。愛しているのは事実だが、それはあまりに身勝手で、自分本位な愛なのだ。つまり、「本当の愛」ではない。この、「本当の愛」ではないという事は、奇しくもクリスティーヌと形は違えど一致していると言えよう。
愛され庇護されることに焦点をあててしまっているクリスティーヌの幼さ。
そして、自分の思うがままに全てを支配したいという怪人の幼さ。
二人とも、精神的に未熟なまま、未熟な愛の物語はやがて惨劇になっていく。

ラストシーンで、二人はその未熟さの殻を破り、「本当の愛」を身をもって知る。
怪人は、醜い(そして、人殺しという大罪をおかしてしまった)自分を選んでくれるなら、瀕死のラウルを解放するという条件を出す。
それに対して彼女は、心を決め、今度は救われるのではなく救うために、怪人にキスをする。
このキスは彼女にとって、そして怪人にとっての精神的成長のためのイニシエーションに見えた。

クリスティーヌのキスは、長らく慕っていた音楽の天使というファントムに対する決別と、守られ庇護されることが愛だというファンタジーに対する否定である。そこには、幼少期からずっとそばにあった空想の世界に、そっと手を振るような、鮮やかな幻想をセピア色に閉じ込めるような、まさに今大人になっていくという決意を感じた。

対して怪人は、どうせ自分を選ぶことはできないだろう、なぜなら愛とは身勝手なものなんだから、という固定観念をキスによって崩される。
その瞬間、彼は気付くのだ。
自分の今までしてきたことは、「本当の愛」ではなかった、と。自分の幼稚さを思い知り、クリスティーヌの強さを見せつけられ、彼は身を引くことしか出来なかった。
しかし彼は成長したからこそ、身を引くという、自分本位とは真逆の行動を取れたのだろう。

こうして二人の主人公はそれぞれ愛とは何か、という答えを見つける。その後にクリスティーヌはラウルと絆を強固にして、おそらく幸せになっただろう。(冒頭に老いたラウルが登場するが、口ぶりからすると結婚したようだった)。

では、怪人はどうなったのか?
彼は、クリスティーヌをはねのけた後に姿を消している。どこかへ隠れて生きているとも取れるし、そもそも冥界らしき湖に住んでいるから(この言葉は正しくないだろうが)成仏したのかもしれない。
どちらにせよ彼が手にした答えは、自分の過去の行いを否定するものであり、「怪人」という化け物のまま存在し続けることは出来ないのだ。
成長によって希望を掴んだクリスティーヌとは正反対で、怪人は絶望や自己否定のどん底に突き落とされた。この温度差こそが、悲劇と呼べるだろう。

では、この物語は勧善懲悪なのかと言えば、決してそうではないと思う。怪人には怪人になってしまうだけの悲痛なバックボーンがあり、その結果自ら惨劇を起こしてしまった。哀愁や、すこしのシンパシーさえ感じるような、魅力的なヒールなのだ。だからこそオペラ座の怪人は、ずっと人気が高いのではないだろうか。

「本当の愛」と何度も書いてきたが、僕自身まだそれは分かっていない。クリスティーヌのように庇護されたいという欲求もあれば、怪人のように思い通りにしたいという欲望もある。二人の歩む迷路に、思わず自らを重ねてしまう人は、意外と多いのではないだろうか。

オペラ座の怪人という作品は、僕たち観劇者に対しても、一種の通過儀礼に気付かせてくれる。
大人になる、とは、単に年齢が上がるということではない。精神的に成熟してこそ、「本当の愛」が分かるのだろう。
20代最後の年にこの作品を観ることが出来たのは、幸福なことだ。
僕も少しづつ、大人になれたら良いなと思っている。

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