生活というもの
昨今、様々な〇〇活が流行っている。「推し」に関する熱量をともなう行動を推し活と言ったり、サウナに行って心身を整えることをサ活と言ったりする。
でも、自分は最も大切なものをおざなりにしていた。
「生活」である。
小学校1年生の時に、せいかつという名前の授業があったのを覚えている。僕は科目の中で、せいかつが一番好きではなかった。出席番号順に並んで、2年生が育てている朝顔を観察しよう、という時間があって、僕は全くもってその時間の意義を感じることが出来なかったのだ。もちろん後で小さな作文のようなものが待っていたから、頭の中で「それらしい」文章を考えながら朝顔を見た。
たしかに、綺麗だった。鮮やかで、青空も相まってとても清々しかった。でもそれが授業という形で提示される意味や、何を今感じるのが正解なのか見当がつかなかったのだ。
美しいと花に対して思うこと?しかしそれは、花を見る人の内面的な余裕が求められる。青空を見ても虚しくなる日があるように、朝顔を見たからといって元気になれるわけではない。
日光や自然に対して感謝すること?今改めて考えるとこれが一番「正解」に近そうな気がする。
どの言葉もなんだか「正しいとされていること」をまるで自分が心底思っているかのように書かなければいけないのが憂鬱だった。
僕は小学校1年から短編小説を書くことにハマっていて、自分が思う世界を、自分で編み出すことが好きだった。だからこそ、なんだか嘘をついているようで、嫌だった。朝顔を見て、自分もいきいきと生活しようと思った、などと書くのが嫌だった。思えないことを書くのも嫌だったし、自分がそう素直に思えないのが普通ではないのか、と不安に感じたのを覚えている。みんなは、朝顔をみると、元気がわいて頑張ろうと思えるのか。僕は、ダメなひとだから、そう思えないんじゃないか。そんなふうに思いながら、「求められる正解」としての作文を提出する、それが自分にとってのせいかつという授業だったのだ。
生活。それは当たり前に、否が応でも展開されていくものなのだけれども、果たしてそれでいいのかと最近思うようになった。
ルーティンのように歯を磨いて食パンを食べ、なんとなく寒くも暑くもなさそうな無難な服を着る。それは多分僕が人間でなくたってできるだろう。人間として、生活をするなら、推し活がそうであるように、「生きる」ことにもっと熱量を持った方がいいのかもしれない。そんなふうに思った。
生活をするということは、あまりにも生きることと近しいから、意外と注視されない。自分の描く道を生きよう、とか、自分らしく生きよう、とはよく聞くフレーズだけれども、自分らしく生活をしよう、とはあまり聞かない。もし聞くとするなら、家具や家電量販店の広告かもしれない。
もちろん生活は生きることに含まれるけれど、「生きる」というのはある種の理念や理想を持った概念だと思う。自分に正直に生きたい。それは必ずしも「自分に正直に生活をしたい」とイコールではないのだ。
じゃあ生活って、なんだ。より良い生活をしたいなら、ハイグレードなものに囲まれればいいという訳でもないし、一人一人にとってきっとそれは別のかたちをしていて、一概に「これが素晴らしい生活だ!」と定義することはできない。
最近、「丁寧な生活」という言葉もよく耳にするようになってきた。詳しく調べたところ、家事などの一つ一つに時間や手間をかけて、精神的な豊かさを求める生活スタイルのことのようだ。例えば土鍋でご飯を炊いたり、季節の七草粥をつくったり、地球環境に配慮した製品を使ったりなど、タイムパフォーマンスが重視される現代において、しっかりした軸のある生活スタイルだな、と素直に思った。同時にこうも思った。これはすごく「生活の正解」に近そうだな、と。
当たり前だが、生活に正解はない。生きること、生き方や人生観に、正解なんてものはないし、逆に全てがその人にとっての正解だとも言える。
だから本来頭の中で考えることじゃなくて、生きながら何となくやってきたことが、やがて自分の人生と呼ばれるのだろう。
そう頭では分かっているのに、僕は気付けば生活の正解を探してしまっている。
きっかけとしては、来月から同棲する、つまり他人と向き合って暮らす、という転換期があるのかもしれない。他人と向き合うことは、自分と向き合うことによく似ている。
今は亡き祖父が、結婚を控えた母に対して贈った言葉に、「花を飾れるような暮らしをしなさい」という素敵なものがあった。花を飾れる暮らし。それはきっと花を愛でる内面的な余裕や、豊かさのある暮らしだ。かつてのせいかつの授業のように押し付けられるものではなく、心の底からすとん、と花を愛すること。季節の移ろいを感じて、そしてどんなに手入れしても枯れてしまう花を見ることで、自分の人生が有限だとも気付くだろう。
そう、有限というのが大きなポイントだ。仮に無限の時間があるならば、生活という言葉も概念も存在しないであろう。
限られた時間の中で、どう暮らすのか。それは僕にとって逼迫した問題なのだ。
まず自分の今までの生活を振り返ると、あまりにも杜撰かつ怠惰で嫌気がさしてしまった。その中には「好きだから・心が動くから〜する」という行動は執筆以外には特に見受けられなかった。
なんとなく、人から見て変に思われなさそうな服を着る。
なんとなく、栄養バランスが気になるからサプリメントを飲む。
なんとなく、身体によさそうな雰囲気のご飯を買ってきて食べる。
なんとなく、iPhoneを触って、世界と接点を得たような気分になって眠りにつく。
そう、全て主体的な行動ではなかった。生きることに関してや、人生観については作品を作るほど考えてきたのに、生活という一分一秒、ひと手間ひと手間には何の軸もなかった。
だからこそ、僕は本腰を入れて生活というものを改めて考えていた。牛乳を口のなかで噛むように、ゆっくり丹念に。
その結果出されたのは、「生活について関心をもっと向けて、一つ一つの工程を味わうこと」が、自分にとってのより良い生活だ。
関心をむける、というのは、例えば料理の工夫について調べたり、ニュースを見て自分なりに考えをまとめたり、日本にある伝統的な、それでいてビビッとくるような生活様式について学んで取り入れてみたり。そうやって、ただ漠然とした作業をするのではなく、まっすぐ生活に向き合うことだ。そしてそれを、自然に楽しむ。じゃがいもの芽って、意外と深くまであるな。同じ小皿でも、色合いによってご飯の見え方が違うな。そんな些細なことをゆっくり、心地よいテンポで自分自身に教えてあげること。そうすればきっと、何か特別なことを変えなくても、自然とより良い生活、まっすぐな生活ができるように思った。
日常のなかの気付きは、想像以上に尊いのかもしれない。
こうやってより良い、より精神的に豊かな生活について書いているけれど、新居に初めてついた日の深夜、コンビニで買ったポテトチップスを2人でたくさん食べた。まるで修学旅行の夜みたいだね、と笑いながら、チョコレートもグミも、好きなだけ食べてから昼までぐっすり寝ていた。もういい歳の大人なのに、なんだか悪いことをしているようで、そしてそれを共有しているようで、心がカラカラと弾んでいた。寝ぼけながら開けたカーテンの向こう、空は澄み切っている。
もしかしたら、生活って、時々はサボってしまってもいいのかもしれない。普段はちょっと気張って、たまにだらけて。そんな風に、少し心が軽くなった。
だってもう、赤ペンで丸やバツをつけられることはないのだから。僕のこれからの生活も、きっと1つの正解なのだ。