ある、ミライ②
2.智恵理 十才
戸賀 智恵理っていいます。
とくいなことと、好きなことは、バレエです。クラシックじゃなくて、モダンバレエです。三才から習っています。
家族からはチェリってよばれているので、みなさんもそうよんでくれたらうれしいです。名前はチェリだけど、フルーツで一番好きなのは、サクランボじゃなくて、イチゴです。
学校に通うと決まったとき。どうせなら自己紹介はそんなふうに、かわいらしく、かつ親しみやすくしようって決めた。美鈴ちゃんと練習もした。
けれど、むだになった。あの時は名前を言うのがせいいっぱいで、バレエのことも何も、みんなに知ってもらうことができなかった。わたしの両親が死んでしまったのだということだけは、いつの間にか、みんなが知っていたけれど。――それに。
あの後すぐ、わたしは〈戸賀〉ではなく、〈邦(くに)森(もり)〉智恵理になった。
バレエとイチゴが好きな、すてきな女の子。
帰る家がちゃんとあって、家族からはチェリってよばれている、ふつうの女の子。
そんな子は、この区には来られなかった。
もう、どこにもいない。
カフェテリアで席をさがしていたら、サクラに足をふまれた。
「おいトガリ。あんまチョーシにのるなよ。」
ランチの時間。
サクラというのは、あの、ヘビの男子だ。フルネームは、佐倉マサツグ。
「わたしのファミリーネーム、とっくに戸賀じゃなくなってるんだけど。」
調子にのっているのは、あんたでしょ。そう言ってやりたいのを、わたしはぐっとのみこんだ。
サクラが、フフン、と鼻でわらう。
「そうだっけ? どうでもいいじゃん。」
いつもそうだ。
――調子にのるな。
――なまいき。
――むかつく。
ここに来た最初の学年。同じクラスだったあの時から、サクラが投げつけてくる言葉は、だいたい同じ。わたしが元気でも、元気じゃなくても。
他の子と笑っていても、ひとりでぼんやりしていても。
サクラの言うことに、たぶん意味なんてないんだと思う。それか、ぜんぶ同じ意味。わたしのことが大っきらいだって、それだけ。
「あっ。戸賀さん」
サクラの後ろからもうひとり。わたしをまだ〈クニモリ〉とよばない男子が、ひょっこりと顔をのぞかせる。相模、ユウヒ。「えっ。すごい。それオートミール? メニューにあったけど、選んだ子見たの初めて。どんな味? おいしい?」
わたしの自己紹介を聞いて、ファミリーネームが『トカチ』というのだとかんちがいした子だ。
ユウヒは〈夕日〉と書くのではないのらしい。それを知ったときは、ちょっとがっかりした。
ユウヒは目を輝かせ、わたしの答えるのをまっている。どうせまた期待しているのだ。わたしが、7区の話をするのを。わたしはむっつりと言った。
「オートミールの味。おいしいかっていうのは、人によると思う。」
おもしろいことは、何も言っていない。
なのに、ユウヒははじけたように笑い出した。
「そうか。それは、そうだよね! あはははっ!」
あはは、って。
わたしは顔をしかめた。別に、怒っているわけじゃない。どういう顔をしたらいいのか、わからないだけ。
明るくてほがらか。ユウヒは、とてもいい子だ。
いい子で、そして馬鹿だった。何も知らない。何も。
知らないから、言えるのだ。あこがれるのだ。7区が今どんなようすかを、知らないから。あの場所のことを、うっとりと口にできる。
一方で、わたしは疑っている。
本当は、ユウヒは何もかもを知っているのではないかって。知っていてわざと、知らないふりをしているのではないかって。
「前から思ってたけど、戸賀さんって、肉とか魚、食べないよね。」
そうだったら、いいのに。
「あ、うん。」
「7区には、戸賀さんみたいな人が多いんだって? ぼくは食べたことないけど、ここ、そういうの使ってないメニューもいちおう、あるよ。」
ユウヒの言っているのは、お豆や穀物で作ったハンバーグやシチューのことだ。
「知ってる。」
ここに来て、もう二年近くになるのだし。「ありがとう。でもいいんだ。」
もともとわたしは、7区のあのできごとからずっと、温かい食事はほとんど食べられなくなっていた。
心の病気の一種だと、ケースワーカーの人が言っていた。
とはいっても、冷えてさえいれば、たいていのものは食べられる。だからそんなに困ってはいない。そのうちによくなると、そう聞いている。
「そっか。ごめん。いろいろ試してみる気になったのかって思ったんだ。ずっと、くだものとサンドイッチだったでしょ。サンドイッチの具は、残してたし。」
ほら。こういうところ。
油断ならない。
「……いつもじゃないよ。たまには、ほかのも食べてた。」
「そんなことないよ。ぼく、まねしようと思って見てたから。スマートシティっぽいランチって、どんなかな、って。」
「何それ。サガミ、7区に夢見すぎ。」
カサカサと、わたしは笑った。
ユウヒの明るい笑いかたとは大ちがい。どうしても、顔がひきつってしまう。
「そうかぁ。夢かぁ。そうかも。でもあこがれるよ。」
ユウヒは、「だってさ」と続けようとしたが、そこにサクラが来てせかした。
「おい。早くしろって。席がなくなる。」
わざわざ、もどってきたらしい。もどってきたついでに、わたしに向かって「むかつく。」と言うのも、わすれてはいなかった。
「戸賀さんも、いっしょに食べようよ。」
ユウヒにさそわれて、わたしは首を横にふった。「えーなんで。」
「何ででも。」
もともと、ランチはひとりで食べると決めていたし、サクラとすわるなんてとんでもない。ユウヒにしたって、食べるのをそっちのけで、7区のことをあれこれたずねてくるに決まっている。そういうのはめんどうだ。「サガミ。わたし、もう戸賀じゃないってば。」
わたしは、子どもっぽく口をとがらせるユウヒに教えてあげた。
「えっ? あっそうか。」
ユウヒは目を丸くしたものの、「いつもわすれちゃうんだよね。」と悪びれず肩をすくめた。
きっとこの先も、わたしはこの子に『戸賀さん』とよばれ続けるのだろう。そんな予感がする。
ひらひらと手をふるユウヒたちと別れて、わたしはいつもの席にトレイを置いた。
テーブルの大きさはふたり用。イスもふたつ。でも柱の配置のせいで、手前側が少しせまくなっている。そのせいで、だれもすわらない。わたしにはちょうどよかった。
「いただきます。」
学校で、「いただきます」や「ごちそうさま」を言う子はめずらしい。
今も、はなれた席にいた何人かが、ちらりとこっちを見た。
わたしは知らんぷりをして食べた。ガリガリとかみくだき、すばやく水で飲み下す、いつもの食べかたで。
みんながどうして「いただきます」を言わないのかというと、「家じゃないから」だそうだ。
――学校でランチを食べるお金は家の人が出してくれているから、「いただきます」を言うなら、家の人に言わないと。わたしがたずねた子は、そんなようなことを言っていた。
『そこではたらいている人は、お金をもらって仕事をしてるんだよ。やるのが当然なの。家族にお礼を言うのは、愛情とか親切でやってくれているから。お店の人にお礼なんて言ったら、お金をあげる意味がないでしょ。それか、もっとお金をあげないといけなくなるかもよ。』
25区に来ておどろいたのは、おおぜいで集まって勉強することや、髪や目の色のことだけではなかった。
まず気づいたのは、あいさつをしても、あいさつが返ってこないこと。
しばらく「何でだろう。」って思っていた。けど一度、そうやってあいさつをしたおばさんに、「ごめんね。知り合いだったかな? だれちゃんかしら?」ってやさしく聞かれたことがあって、それでわかったのだ。ここでは、知り合いじゃない人には、あいさつはしないのだ、と。
乗り物や、生涯学習施設でもそうだ。年をとった人や、ケガをしている人に気がついて席をゆずっても、ツン、としているのが不思議だった。同じ人がそのすぐ後に、別の人に笑顔で手をふったりしていたから、なおさら。
買い物をするお店でも、家族や友達とふつうに話していた人が、お店の人にはすごい勢いでもんくを言っていた。
そういうのぜんぶが、同じ理由だったのだ。
知り合いじゃないから。
家族じゃないから。
25区がふつうなのか。――たぶんそうなのだろう。
あそこでは、どうだっただろう。あそこというのは、わたしが生まれてから、九才になるまでをすごした、7区だけど。
7区の居住スペース以外の場所がどんなようすだったか、ほんとうは、あまり覚えていなかった。あそこの生活で、外に出ることは、そんなに多くはなかったのだ。
今では、わたしのように、『ひっこし』をしたことがある子はめずらしくなった。
むかしはちがったらしい。
ユウヒは、『あこがれる』と言っていたけれど。
だいたいの子は、自分が生まれた地区の外に出るなんて、思いついたこともないんじゃないかな。
たしかに、同じ場所に住み続けるというのは、だいじなことだ。
好き勝手に動きまわったら、とても、〈管理〉なんてできない。
その人が、どんなものが好きで、きらいで。
何ができて、できなくて。
持っているもの。
つながっている人。
――みんながしょっちゅうひっこしをしたら、そういうのが、よくわからなくなってしまう。
それでは、ちゃんとした〈見まもり〉ができない。
〈クニ〉に守ってもらえない。
*****
その日先生たちは、朝から、ひどくそわそわとしていた。
ううん、ちがう。
朝からじゃない。もっと、何日も前から。
理由はわかっている。先生たちも、かくそうとはしていなかったし。
〈クニ〉から、人が来るというのだ。
そして、わたしたちみんなの前で、話をしてくれるという。名前は、たずねた子がいたけれど、教えてもらえなかった。
すばらしい人。優秀な人。
女性です。
来るのはどんな人ですか、という質問に、先生は、そんなふうにしか答えてくれなかった。そんなのは、答えたうちに入らない。わたしが思いえがいたのは、ふつうのおとなの女の人。
けれど、まちがいだった。
学校にやって来たのは、ふつうよりも、かなり変わっている女の人だった。では、すばらしくて、優秀な人だったのか? それはよくわからなかった。
「むかし。このクニは、戦争に負けた。」
女の人は、〈ミナト委員〉。
話のはじめに、自分でそう名乗った。先生たちが教えてくれなかっただけで、べつに、秘密の名前というわけではなかったらしい。「しかし負けたとはいっても、その戦いぶりは、敵とて、認めざるをえなかった。まったく、たいしたものだった。だからだろうな。戦争に負けて、まだ我われが弱っているすきに、 “戦争ができない国” にされてしまった。なぜか。このクニを、おそれたのだ。次に戦ったならば、必ずやこのクニが勝つと、わかっていたからだ。」
ミナト委員は、まっすぐな髪を背中にたらしていた。そして制服を着ていた。その制服を、わたしは見慣れていた。初めて見たのは、ここに連れてこられた時。次に見たのは〈クニモリ〉になる時。ミナト委員が、前にも会った人かどうか、少し考えてみる。たぶん初めてだ、と思った。
もし会っていたら、覚えているはず。
ミナト委員を見ていると、わたしは落ちつかない気持ちになった。いろいろと、ちぐはぐだったから。
たとえば、話しかただ。むかしのお人形みたいな髪をしているのに、話しかたは、おじいさんみたい。おじいさんみたいというのはつまり、むかしの映像資料に出てくる〈えらい人〉みたいってことだけれど。
「長い時間がかかった。それでも我われはたゆみない努力を続け、ここまで来た。そして。ついに戦う権利と、手段と、そして、力。それらが、ようやくそろったのだ。我われの手に、本当の意味で、我われのクニがもどってきた。」
話じたいに、とくに変わったところはない。ふだん、聞かされていることばかり。「ここまで来るのには、きみたちのお父さんやおじいさんや、ひい おじいさんたちの、なみなみならぬご苦労があった。」
これだったら、わざわざ集まったりせずに、映像で流せばよかったのにと思う。
わたしだけじゃない。みんながたいくつしていた。
しゃべったり、キョロキョロしたりする子はいない。全員が前を向いて、おぎょうぎよく聞いている。それでも、そういうのってわかるものだ。
「ようやく。ようやくだ。」
ミナト委員はそこで、こらえきれない、といったふうに目じりをぬぐった。けどそれは、おかしなことだった。なみだなんて、出ていなかったから。「きみたちは、感謝せねばならない。まずは今日家に帰ったら、家族とともにこの、誇り高いクニに生きることの幸せを、あらためて分かち合ってほしい。そして、このすばらしいクニをきみたちに手わたさんがため、たえ、忍んだこのクニの兵士たちに、思いをはせてほしいのだ。」
おかしかったのは、なみだのことだけではなかった。
ミナト委員は、お母さんやおばあさん、ひいおばあさん。その人たちについては何も言わなかった。忘れていたのだろうか。自分も女の人なのに?
ナミナミナラヌゴクローの間、女の人たちがいなかったはずがないのだ。
このクニのきまりでは、まだ女の人しか赤ちゃんを産むことができない。女の人たちがいなかったら、お父さんも、おじいさんも、ひいおじいさんだって、生まれてこられない。
「きりつ」
先生のごうれいがかかって、わたしははっとした。
ミナト委員の話が、やっと終わったのだ。
ごうれいも、25区に来て初めて経験したもののひとつ。みんなにジロジロ見られて、わたしもあわてて立ち上がる。
「礼」
それにしても、ずい分長い話だった。つまらなかったから、そう感じるのだろうか。でもまあ、とにかく終わった。
そこに、手があがった。
「あのぅ。」
え、うそ。
手をあげたりしていいんだ?
質問ってこと?
みんなが小さくざわめく。だれだ、あれ。
相模ユウヒだった。
先生たちはあわてていたけれど、ミナト委員はきげんがよさそうにニヤッとわらった。
「どうぞ、どうぞ。」
わたしはぎょっとした。だって話をしている間は、一度も笑わなかったのだ。
ユウヒがわらい返したかどうかは、わたしからは見えない。わたしとユウヒの間には、ほかの子が何人もはさまっている。
「どうしてそんな苦労をしてまで、戦争をしたいのですか。環境に悪いのに。」
ユウヒは、ふだんと変わりないおだやかな話しかたで、おっとりと言った。
環境って。
あっけにとられたのは、わたしだけじゃない。
ユウヒはみんなから好かれている。この場にいるみんなが、いっせいに心の中でとなえているはずだ。
ユウヒ、だめ。やめておきなよ。
幸いなことに、ミナト委員は、ユウヒの言ったことに気を悪くしたようすはなかった。
「ふふ。おもしろい見かたをするな。きみは。――だいじょうぶだ。 “できる国”になったからって、本当に戦争を始めるわけじゃない。」
「相模くん。さあ。もういいでしょう。おれいを言って、すわりなさい。」
先生が、ここにいるみんなの思っていることを代表して言う。けれどユウヒはかまうことなく、質問を続ける。
「じゃあ何のために。」
「悪いやつはいるからな。そういうやつらに、見くびられないように、だ。」
ミナト委員はそう言って、余裕たっぷりというふうに笑った。
ユウヒは笑わなかった。そう。笑わなかった。
おかしい。どうしてユウヒの顏が見えるんだろう。さっきは、見えなかったのに?
ユウヒが、首をかしげる。
「見くびられる。」
ミナト委員の言ったことを、くり返す。うたがっているんだ。
わたしには、それがわかった。
けれどミナト委員は気がつかないみたいだ。
言葉の意味をきいているのだとでも思ったのらしく、わたしたちにもわかりやすいように説明してくれる。
「なんでも思いどおりになる、つごうのいいやつだって、バカにされることだ。そうならないために、どうしたらよいか。わかるか。」
「……思いどおりになるって、思わせない?」
「そうだ。それには、どうしたらいい?」
「……ぼくがいやだと思うことは何か、わかってもらう。……もらいます。」
また、ミナト委員が笑った。
「わかるような相手ではない。むしろ、そのイヤなことを、わざとしてくるかもしれないぞ。」
「そうなんですか?」
ユウヒは、考えているようだった。「……こっちを好きになってもらえるようにがんばるとか。何かプレゼントしたり。」
「もっとよこせと言ってくるだろうな。」
「じゃあ、どうしよう。イヤなことをしたら、しかえしをするって言っておく? ……あっそうか。それで。」
ユウヒは、何かまずいものでも食べたかのように、きゅっと口をすぼめた。
「そうだ。だからこそ、“できる国”でいなければならない。」
ミナト委員はもう、笑っていなかった。
ガタン。
音がした。――すぐ近く。
わたしは何だろうと目をしばたいた。そして、イスがたおれた音だったのだと気づいた。
たおしたのは、わたし。
見まわすと、立っているのはわたしだけだ。
正しくはひとりではなくて、ミナト委員と、ユウヒ、そしてわたし、の三人。
みんな、いつの間にすわったのだろう。
「きみ、名前は。」
ミナト委員が、表情のない顔でそうきいてくる。
「……邦守、智恵理です。」
「ちがう。おまえではない。」
ミナト委員が、冷たく言う。わたしを見ることもしない。
「相模ユウヒです。」
ユウヒが答える声を聞きながら、わたしはどうにかイスを直し、こしを下ろした。
はずかしかったし、頭も、ごちゃごちゃだった。
「ちょっと。さっきから、だいじょうぶなの。しっかりしなよ。」
ひじでつっつかれる。
「うん。」
シグレちゃん。まあまあ仲のいい友達だ。
シグレちゃんはわたしのことを、正しく「クニモリさん」とよんだ。みんなそうだ。
サクラと、ユウヒだけが、わたしを、『クニモリ』とよばない。