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いつかのおよんじ


「カーッ!! 餃子に紹興酒! 行きてぇナァ~!」

 

16時。オフィスの自席で、Y部長はしばしばそんな風にぶち上げる。


私は秘かに、部長を「よんじい」と名付けている。16時、つまり午後4時に雄叫びを上げるオジさん? おジイさん? そんなニュアンス。



雄叫びへの課内の反応は、日により人によりだ。

「いいッスね」「ビールならお供します」

「もしかしておごり?」

と合いの手が入ることも、みな自分のことに忙しくて目さえ上げない日も。


〈よんじい〉の本気度もやっぱり、日によって違う。

たまに飲み会が実現すればしたで、あんなに恋しがっていた中華料理屋ではなかったり、言い出しっぺ自身が紹興酒じゃなくてビールを飲んでいたりもする。

だいたい、定時退社時刻は18時だ。

16時に管理職がそんな発言をするのは、いくら営業部とフロアが違うとはいえ、士気が削がれるとお叱りがありそうなもの。実際、部内の他の課からは「あそこは自由過ぎる」という批判も聞こえてきていた。

ガツガツしていない、飄々としている、「いい意味で」変わっている。

集まったのか集められたのかは定かではないが、とにかくそんな人たちばかり集まった部署。

未熟でも、生意気でも、しゃかりきでも、不安定でも、締め付けも抑えられもせずに、多少心配されながらも伸び伸びとやらせてもらえた。

「餃子に紹興酒」のフレーズに熱のこもらない「いいですねえ」を返すことを覚え、少しは仕事ができるような気にもなってきた頃。


私は〈よんじい〉に呼ばれた。そして遠慮がちに切り出された。


――あなたさえよければ、あなたが正社員になれるよう『上のほう』に掛け合ってみようと思うのだけれど。どうだろう?



そうだ。〈よんじい〉――Y部長はそういう人だった。


普段はべらんめえ調だったりするのに、いざとなると丁寧でナイーヴな語り口になる。

というかたぶん、もともとこちらが本質だったのだろう。


ロストジェネレーションと呼ばれる世代で、当面結婚する予定もなさそうな女性の派遣社員を前に、相手が狂喜乱舞して喜んで当然の提案をこれだけバツが悪そうにする人なんて。

Y部長の他にはたぶん、きっとこれからも出会わない。


――お願いします。

私はおそらくそう答えたはずだ。



現在の私にとって、午後4時は退社時間だ。

それはフルリモートワークに以降した現在も変わらない。

娘の幼稚園がある日は登園準備を併行しながら、ない日は彼女の起床までにより多くの仕事をこなすべく、早い日は朝6時からPCを開いて業務を開始する。フレックスにも程がある。

ウィズコロナなどという以前に、あの頃とは全く違うライフスタイル、ライフサイクル。


――けれど刷り込みは既に完了している。


退屈極まってフローリングに転がる五歳児を叱りつけながら間もなく業務を終了する旨のメールを作成する午後四時過ぎ。

何げなく「餃子に紹興酒」と唱えている自分がいる。

そしてPCを落とすと娘にはおやつならぬ「およんじ」を、自分には紅茶かコーヒーか時折はビールを一杯振舞ってから、昼休みに中断していた家事を再開する。


――結局私は、あの会社で正社員になることはなかった。


Y部長はひどく済まなそうにしていたが、私にダメージはなかった。

オファーはうれしかったが、あの会社の「上のほう」の人たちがGOサインを出してくれるはずがないことは、五年もいたのだから派遣社員の私にも想像がついていた。

何度も転居をするうち、現在はY部長との年賀状の遣り取りも途絶えてしまった。SNSもあるのだから、その気になりさえすれば繋がり直すことはそれ程難しくないとはいえ、いざとなると尻込みしてしまって実現していない。

それでも。


「餃子に紹興酒」


そう唱えると、ふつふつと、気持ちが満たされていくのがわかる。

――大丈夫。見てくれている人はきっといる。



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