ある、ミライ④
4.智恵理 13歳
成長したわたしは、秘密のしごとを持っていた。
やっているうち、ずいぶんと手馴れてきた。自分なりのルールもある。基本的に無言。何も考えない。機械になったつもりで、集中する。びっしりと彫りつけられたこのクニの文字――漢字、ひらがな、カタカナ。そこから、
さがす。
終わった後はいつも、声の出しかたを思い出すところから始めないといけなかった。
今日は、少しちがった。指で文字をたどりながら、自分が歌を口ずさんでいるのに気づいた。
音楽の時間に習ったばかりの歌。
もともと学習予定には入っていなかったのを、先生がぜひみんなで聴きたいと、授業で紹介したのだ。
――この公園の桜にも、実はなるのだろうか。
桜はもうすっかり葉桜で、訪れるおとなもまばらだけれど、メモリアルパークの北がわに建つ立体花だんは、ボランティアの人たちによって、常に何かしらの花でうめつくされている。大きな波の形をイメージしたそれは、遠目には、カラフルな布がしいてあるようにも見えた。
近くで見れば、それが花で、土の階段におぎょうぎよく植えられているのだとわかる。
きれいはきれいなのだけど、あまり「さいている」という感じはしない。階段のわきは、はば三十センチほどの石でできたスロープだ。石っていうかたぶん、コンクリート。
コンクリートの波は、高いところでは、おとなの背たけよりもまだ高かった。見ようによっては、すべり台のように見えないこともない。
グレーのニットキャップをかぶった少年がひとり、波形の花だんの前を横切り歩いて行く。
おそい夕方。あるいは、夜のはじまり。
だんだんと、子どもたちが帰っていく時間。
子どもとしては大きいわたしは、まだ帰らない。
わたしは今、十三歳。旧式にいえば中学生だ。
それでも、おとなというにはまだ若い。
少しつかれたかな、となっても、思いきりのびをして、氷砂糖でもかじればまた、元気がわいてくる。今もそうやって、しごとにもどったところ。
仕事ではなく、しごと。すると決めたこと。ただし秘密に。
秘密ではあるけれど、気楽なものだ。
学校のあと、まっすぐ来ることもあるし、一度帰ってから来る日もある。気が向かなければ、そして雨の日も、こない。そうやって今日で、始めてから何日になるだろう。
しごとの内容は、名前さがしだ。
何千、何万という名前の中から、自分と同じ名前をさがす。
波の花だんとはちがい、コンクリートではない、もっと高そうな石にびっしりとほられた名前。そのひとつひとつを、わたしは目で、指で、たどっていく。
〈すごくむかし〉に、ここで死んでしまった人たち。
花だんの花は、その人たちにささげられたものだ。
ほんもののおとなに知られたらきっと、おこられる。けど言いわけなら考えてある。7区生まれだと、ひとこと言えばいい。きっと同情してもらえる。それでダメなら名前を言う。もちろん、今の名前のほう。
さがしているのは、〈戸賀智恵理〉だけれど、それを教える必要なんて、ないのだから。
――ガガガガッ。
ニットキャップの少年が、けたたましい音をたててターンを決めた。
男の子は何か、板のようなものに乗っている。よくあるリニアフロートのようにも見えるけれど、あれは空中にうかぶから、こんなにそうぞうしい音は立てない。
スケートボード、というのだそうだ。
小さなタイヤのついた板きれの上に立って、走ったり、すべったりする道具。何十年か前に、とてもはやったという。シグレちゃん流にいえば、〈むかし〉と〈すごくむかし〉の中間くらいの時代に。
スケートボードは、リニアフロートににてはいても、あんなふうにうかんだり、壁や、天井を走ったりはできない。第一、板にはただ乗っているだけなのだから、そんなことをしたら落っこちてしまう。
ほらね。落ちた。
わたしがながめている前で、少年が、勢いよく転がった。
スケートボードで、〈すべり台〉をすべりおりようとしたのだ。コンクリートの、スロープになった波の部分を。
むくり、と少年が立ち上がる。それからボードをかかえ、花壇を登り始めた。わたしはあきれた。さっき、あんなにはげしく転倒したばかりだというのに。
前にも、ああやって派手に転ぶのを何度も見ていた。
いいかげん、やめようとは考えないのだろうか。大けがをしないのが、ふしぎなくらいだ。
わたしは首をふると、その時やっていたことに集中しようとした。
おびただしい数の、名前、名前。名前。
文字、文字、もじ、文字。文字。名前。なまえ。
名前。人の名前。
〈すごくむかし〉に生きていて、死んでしまった人たち。
どうして言い切れる? この中に、戸賀智恵理がいないと。
ガガガガッ!
ふたたび耳ざわりな音。顔をふり向けたわたしは、「あっ」板きれが宙に舞うのを見た。
ゴッッ。
胸の悪くなるような、重く鈍い音。
ガツッ。
こちらはたぶんボードが、落ちて地面にぶつかった音だ。
あの子は?
わたしはかけて行って、波のうらがわに出た。
少年は、そこにたおれていた。
砂利の地面に顔をふせて、そのまま動かない。
「うそ。どうしよう。」
頭を打ったりしているかもしれない。でもどうやって確かめたらいい? それに――死んだのかもしれない。こんなことで、まさか。でも。
人は、死ぬのだ。かんたんに。あっけなく。
確かめるのがこわい。
確かめてしまったら、もどれない。知っている。
死は、決して取り消せない。「ねえ。起きてよ。ふざけてないで。」
わたしは後悔していた。――止めればよかった。
あぶないから、やめなよって。
「ねえったら。――サガミユウヒ!」
わたしはいても立ってもいられず、さけんだ。
「戸賀さん?」
「あ。」
うつぶせだった少年が――サガミユウヒが、ごろんとねがえりを打った。
「やっぱり戸賀さんだ。なんでいるの?」
こちらを見上げるユウヒの顏は、どこも、何ともない。血も、見えるとこからは出ていない。
そして変わらず、わたしのことを前の名前でよんだ。
「なんでって。」
だいじょうぶなの? そうたずねようとしたのに、のんきそうにしているのを見たら、腹が立った。それで、別の質問に変えた。
「学校にも来ないで、何やってるの。」
「何やってるって、」
そうなのだ。今日ユウヒは学校に来ていなかった。
今日だけじゃない。昨日も、その前も。
「今は、雲を見てるけど。」
ユウヒはそう言って笑った。
「答えたくないってこと?」
「そうじゃないって。」
はぐらかすように、「んーっ。」と伸びをしてから、ユウヒが起き上がる。しかしそこで、動きを止め、ぱかっと口を開けた。「……あっ。」
「どうかした?」
わたしが声をかけると、ユウヒがぱっとこっちを向いてガッツポーズをした。
「すごい! やった!」
って、何が?
ユウヒの目が、輝いている。「あのさ。一度やってみたかったんだよね。『何してるの?』って聞かれて、『雲を見てるんだ。』って言うやつ。むかしのアニメで、そういうのがあって。今さ、ぼくたち、それやったよ? ね?」
「ばっ……馬鹿なの?」
わたしは、わざと乱暴に言った。
『ぼくたち』と言われて、ドキドキしていた。ユウヒが鼻を鳴らす。
「差別用語だよ。それ。」
「ちがうよ。ただの悪口だよ。」
「なるほどね。じゃあいいよ。」
ユウヒがにっこりとして、わたしはあきれた。いいんだ?
「だったらもうひとつ。すごくかっこ悪いよ。そのアタマ。」
「あたま。」
「ぼうし? キャップ? 知らないけど。」
「ああ。」
いつもかぶってるよね? と言いそうになって、あやうく飲みこむ。それでは、いつも見ていると言っているようなものだ。
「かっこ悪い。むかしのファッションって感じがする。」
苦しまぎれにつぶやいたら、ユウヒにたしなめられた。
「そんなことないよ。むかしの服でも、かっこいい服はたくさんあるよ。」
わたしのよく知っているユウヒだった。
わざとずれたことを言って、話している相手を煙に巻くのだ。
「あのね。」
そうは、いかないんだから。
わたしたちはここで、偶然会った。――ことになっている。
偶然というのは、特別なのだ。ひとつふたつはいつもとちがっていたって、きっと、いい。
「かっこいいむかしの服が、たくさんあるとして。ユ、サガミがかぶっているぼうしが、かっこ悪くないってことにはならないよね。それに、ぼうしがかっこ悪くなくても、かぶっているサガミがかっこ悪くないってことにも、ならないよ。」
「そうかな。」
「そうだよ。」
そもそもわたしが言ったのも、ぼうしのことじゃなかったはずだ。
「そうかぁ。」
「けど、まだ取らなくていいよ。さっきみたいに転んだ時にプロテクタがわりにもなるし。まだそれ、スケートボードだっけ、やるんでしょ。花だんの上から。そんなので死んだら、それだけでかっこ悪いよ。もうやめればいいって思う。」
わたしのしゃべるのを、ユウヒは目をしばたいて聞いていた。わたしが口をつぐむと、ふっと笑った。
「今日はたくさんしゃべってくれるんだ。」
「わたしの話、聞いてた?」
「聞いてたよ。うん、戸賀さんって、かしこいよね。前から思ってたんだ。頭の回転が速いなって。」
「え。」
わたしは、たぶん赤くなった。ほめられたことよりも、『前から思ってた』と言われたことに、またしてもドキドキした。
「ユ……サガミに言われると、なんかヤな感じ。」
ユウヒはこれで、かなり成績がいいといううわさだ。
うわさが本当なのかはわからない。そういうのはぜんぶクニが管理していて、ふつうは本人や家族でさえ、知ることはない。
「そんなことないよ。」
「あ、また。」
わたしは、成績について考えるのを止め、ふき出した。「『そんなことない』。っていうセリフ。口ぐせなの?」
「えっ……?」
ユウヒは、不意をつかれた、というふうに考えこんだ。「そうかも。自分では、気が付かなかった。」
「ああ。そういうの、あるかもね。」
わたしにもきっと、あるんだろう。くせ。だからといって、気づいてくれるような人なんて、いないけれど。でも今は、そんなのはいい。
「すごいね、トガさんと話してると、自分が新しくなったって感じがする。」
「何それ。それこそ、『そんなことない』よ。」
わたしの言葉に、ユウヒは「あはっ。うまい。」と笑った。
なんだろう。こういうの。こんな感覚。ええと、そう――楽しい?
そうだ。それだ。
わたしは、楽しかった。
「とにかく、ありがとうってこと。願いをかなえてくれて。」
ユウヒはそんなふうにまとめると、わたしを置いてまたスケートボードにとび乗った。あんなに止めたのに。――いろんなこと、もっと、話したかったのに。いったいこの後は何回転ぶ気だろう。
二回目までは見とどけた。けれど、一向にやめるようすがないので、わたしはユウヒに腹を立てながら先に帰った。
*****
音楽の矢野先生が、戦地に行くことになった。
準備なんかでいそがしいので、学校にはもう、来ないのだそうだ。
矢野先生が結婚をしていたのか、生徒のだれも知らなかった。先生たちは知っているだろうけど、わたしたちには教えてくれない。
わたしたちがそのかわりに知ったのは、ユウヒが――相模雄飛が、橋を渡ったということだった。
ユウヒは〈雄飛〉と書くのだ、ということも、わたしはこの時初めて知った。
何が、『ありがとう』だったのか。
何が『願い』だったのか。
わたしは今も、ずっと考えている。
波の花だんをスケートボードで滑りおりるのは、ユウヒの〈しごと〉だったのかもしれなかった。
――『今は、雲を見てるよ。』
公園の桜は、やっぱり実をつけていなかった。
調べたら、お花見をするような桜と、わたしたちがサクランボとして食べる桜は、別の品種だった。お花見用の桜は、実がなることはまれで、もしなっていても、おいしくないらしい。
それでも、なっていたら食べてみようと思っていた。それなのに。
わたしは、近くの幹にもたれるようにして、ずるずると地面にすわりこんだ。
「おっ。」
声がして、わたしはびくりと顔を上げた。
「あ。」
――サクラ。
一瞬、ユウヒかと思ってしまった。前から思っていたことだけど、ふたりは背かっこうがにているのだ。
「っていうか。何してんだよ。」
サクラが、つっけんどんに言う。
わたしは思わず空をあおいだ。するとサクラに足を蹴られた。「むかつく。目ぇそらすなって。」
「ちがう。」
雲をさがしたのだ。
「うそつけ。」
雲はなかった。ひとつも。いっぺんも。ひときれも。――あれ?
「ねえ。雲の数え方って、どういうきまりだっけ。」
「は?」
わたしがきくと、サクラはけげんな顔をした。
「だから、単位。サクランボならいっこ……あれ、ひとふさ? ひとつぶ?」
「知らねえよ。矢野にきけば。」
「矢野先生?」
どうして、ここでその名前が出るんだろう。
「あいつが歌わせた歌の歌詞だろ。サクランボとか、雲とか。」
わたしは、サクラを見上げたまま目を見開いた。
「あ……。」
たしかに、そうだ。桜の実。雲。
気が、つかなかった。
「そのせいで……だろ。歌くらいで。ほんと馬鹿みたいだよな。」
サクラが言う。
「差別用語だよ。」
わたしは力なく笑った。馬鹿というのは、矢野先生のことを言っているのではないという気がしたから。けれど、サクラが続けて言ったセリフに、笑いを引っこめた。
「『ただの悪口』じゃなかったのかよ。」
だまりこんでしまったわたしをじっと見て、サクラがため息をつく。「まさか、あいつが一番先とはな。」
わたしだって、そう思っていた。先に行くのはわたしだって。
「……まあ、ここの外に出るのは、あいつの夢だったからな。おまえが転入して来たとき、あいつ大さわぎだったんだ。外の話がきけるって。」
「そう。」
だったら――がっかりしたはずだ。
7区について話すのは最初、クニから止められていた。それに、話すようなことも、実はそんなにはないのだ。あそこにいたとき、わたしが外出する機会はそれほどなかった。サテライトスタディ制度を利用していたから。7区であったことが大っぴらになってからは、わたしよりも、みんなの方が7区にくわしいくらいだった。
「あーあっ。」
サクラが、わたしの横に来てこしをおろす。
「ちょっと。」
「あいつさ。学校休んでたじゃん。で、ここ来て遊んでただろ。」
もんくを言おうとしたのに、とちゅうで飲みこんでしまった。――知っていたのか。
ということは、わたしがあの時だけじゃなくて、ここによく来ていたことも……。
「あれって、行くって決まってからだったのな。そりゃ、そうなるよな。学校来て、のんきにしてるオレら見るのは、なぁ。」
「うん。」
用心深くうなずいたわたしに、「うん。じゃねえ。」サクラが、つまらなそうに毒づいた。
「次は自分だって、おまえわかってる? クニモリ。」
わたしはおどろいた。
「……どうしたの?」
「は? なにが。」
「だって。初めてあっちの名前でよんだ。」
あっち? こっち? どっちが。自分でもわからなくなる。
なんとなく、サクラには「クニモリ」とよばないで欲しかった。
「トガリってよべばいいのかよ。」
「そうじゃなくて。」
「じゃあ、智恵理。」
反応するのに、ほんの少し時間がかかった。
だって、言い方が。
さらっと言いすぎて、『チェリ』って聞こえてしまった。
「……ふつう、そこは戸賀じゃないの? いきなり下の名前? どうしたの? 今日、ほんとうに変。」
わたしに指をさされて、「うるせ。」サクラが顔をしかめる。
そして、ふい、と目をそらせた。
「おまえって失礼だよな。……ていうか、傷つく。」
「あ。ごめんなさい。」
びっくりして、あやまってしまった。サクラの口から、『傷つく』なんて言葉が出るなんて。ううん。それよりも。
サクラ、泣いている?
「こんなの、ないだろ。ほんと、やってられねえ。」
そう言って、サクラはごしごしと顔をこすると舌打ちをした。「たしかに。おれ今日、変だわ。」
「……だから、さっきからそう言ってるのに。」
「ムカつく。調子にのるなよ。」
*****
部屋にもどって、まずわたしは水を飲んだ。
きれいに洗ってふせておいたグラスに、蛇口からなみなみと水道水をそそぎ、飲み干す。もう一杯。今度のには、びん入りのレモン果汁をたらす。のどを落ちていった水はおなかにたまり、そこからじんわりと広がっていった。
わたしのからだ。ここにある。ここにいる。
わたしは、生きている。バレエだってまだ、踊れる。
食べられないという症状は、学年が上がるとともに、だんだんひどくなっていた。今では、はき出さないですむのは水とシリアル、それから氷砂糖と、びん入りのレモン果汁だけだ。それでも病気をすることはない。
ふと見ると、部屋おきのタブレットのランプが点灯していた。
ネットフォンで、着信があったのだ。
シグレちゃんだ。そう決めつけて、わたしはしげしげと緑色のランプを見つめた。
シグレちゃんのところは去年、家族そろって大陸に引っ越しをした。
行く前にも、そして行ってしまってからも、シグレちゃんはわたしにいろんな〈相談〉をしていた。
「あたしの知ってる子で、引っ越ししたことがあるの、ちーちゃんだけだもん。」
と言うのだけれど、〈相談〉の半分以上はじまんだった。
〈相談〉の部分についてだって、あまり役に立ったとは思えない。わたしの〈ひっこし〉に、準備や計画はなかった。「想像とちがった。」「きたいしてたのとちがう。」となげくシグレちゃんに、「そうなんだ。」としか思わなかったし、ほぼそのままを言ってしまったはずだ。だからなのか、最近は〈相談〉はこなくなっていた。
わたしにまた、じまんしたくなるようなことでも、あったのかな。
シグレちゃんとつながったのは、三十分ほどもたってからだった。
わたしは夕ごはんにかじっていたシリアルをおしやって、タブレットを引きよせた。
「ちーちゃん。」
画面に映った女の子が、わたしをよんだ。
「シグレちゃん?」
わたしのほうは、よぶというより、たずねるのに近くなった。シグレちゃんのIDにかけているのだから、そうに決まっているのに。
シグレちゃんは、引っこしをしてからわたしを「ちーちゃん」ってよび始めた。いいかげんなれたし、そのせいではないはずだけど、何だかちがう人みたいに見える。感じが変わった?
「ちーちゃん、髪、のびたね。」
シグレちゃんが言う。
「そうかな。」
「うん。前のときは、かたよりも上だったよ。のばすことにしたんだ?」
そう言うシグレちゃんの髪も、たぶんけっこう長い。前髪ものびすぎていて、だいぶ目にかかっている。切ったほうがいいと思うけれど、わたしはそれよりも別のことが気にかかった。
シグレちゃんの今いる場所。うつっているところだけでも、すごくゴチャゴチャとして、ちらかっている。せんたくものと、あれはもしかして、ゴミ?
「もしかしてまだ、家の外? これから帰るの?」
つなげるの、家にもどってからでよかったのに。そう思いつつたずねると、シグレちゃんが顔をゆがめた。
「ちがう。家じゃないけど、もう帰ってる。あたしたち、今はここに住んでいるの。」
シグレちゃんが何を言っているのか。考えてみる。何か、良くないことだ。でも、何かって何。
「それは、つまり。」
「あのね。パパが強制収容っていうのをされて。」
シグレちゃんがそう言ったとき、のびすぎた前髪の奥の目が、光った気がした。――あっ。
「うん。」
わたしは返事といっしょに息も飲みこんだ。シグレちゃんがくくっ、とわらう。
「『うん』って、ちーちゃん。変だよ。ちゃんと聞いてる?」
けれども、目はわらっていない。
この目を、わたしはよく知っていた。必死になっている目。もう何もとられたくないって、鏡の中から、いつだってうったえかけてくる。
「聞いてるよ。」
「なら、いいけど。」
いいって。ぜんぜん、よくないよね? 大変なんでしょう? だから、わたしに。
「意味も、わかった。……〈強制収容〉。画面に出したの、読んだ。」
わたしは、かわいてくっつきそうなのどから、声をしぼった。水なら、あんなに飲んだのに。
シグレちゃんは、「そう。」とあごを引いた。それから少し考えて、カメラの前から消えた。
シグレちゃんでかくれていた部屋の全体が、はっきりとうつし出される。ちらかって天井のかたむいたせまい部屋。これって、まさか。テント?
「もうわかったよね。そういうこと。あたしたち、家がないんだ。」
すがたを見せないまま、シグレちゃんの声だけが聞こえている。
「あたしやママは今、すごくお金に困ってる。ママがいちおう働いてるけど、お給料、わらっちゃうくらいちょびっとしかもらえない。何でかっていうと、外国人だから。しかも、食べ物くらいしか自由に買えないの。すぐにでも出て行くべきなのに、持ち物をふやしたらダメだって。ないしょで売ってくれるお店もあるけど、何でも信じられないくらい高い。」
今わたしとしゃべっている、この子はだれ。ほんとうに、シグレちゃん? 無邪気であまったれの、あの子なの?
「なのにね、パパったら、ひどいんだ。ぜったいに〈くに〉には帰らないって言うの。自分勝手だよ。あたしとママがせまくてきたない家しか貸してもらえなくて、服とかももうボロボロで、そのせいで学校でもいじめられてるっていうのに、それでも帰らないって。帰ったら、兵役どころかすぐに7区行きだって、『しーは、パパが死んじゃってもいいのか。』なんて言うんだよ。そんなわけないじゃない。あたしたちの〈くに〉は、こことはちがうんだから。そう言っても、わかってくれないの。」
「あの、シグレちゃん」
「パパが帰るってひとこと言ってくれたら、すぐに飛行機に乗せてもらえるんだよ? あたしたちみんな、もとにもどれるのに。」
「シグレちゃん。このことは、だれかに……?」
どうにか口をはさんだものの、出てきたのはそんなまぬけなしつもんだった。かわいた声でぴしゃりと言われた。
「だれかって?」
「だれか……親せきの人とか。」
スクールカウンセラーの先生。ソーシャルワーカーさん。色んな人の顏や名前がうかんだけれど、わたし自身、その人たちに何かをきたいする気にはならない。しかもシグレちゃんが今いるのは、海の向こう。大陸をずっと回りこんだ南のはしの国だ。
「あのね。」
シグレちゃんが、しんこきゅうするみたいなため息をついた。「今してるネットフォン。これも、ちーちゃんにならいいって言われたんだ。親せきとか、ほかの子はダメだけど、クニモリの子となら話してもいいって。どういう意味かわかる?」
わかるような気がした。けど、わたしは首を横にふった。
「わからないの? ……あのさ、ちーちゃんは、もうすぐそこからいなくなるでしょ。だからだよ。」
「ああ。」
とつぜん、わたしは腹が立った。「なるほど。」
もうすぐって? それがどうしたの?
相模雄飛はもう、あっちに渡ったんだから。
「……シグレちゃん。そこから帰る方法、あるよ。」
もとにもどれるなんて。そんなわけが、ないんだよ。「クニモリになればいいんだよ。」
スピーカーのむこうで、音が消えた。
画像に変化はない。
われながら、性格の悪い言い方をしてしまったと思う。
回線が切れた? そう思い始めたとき、シグレちゃんの声ががなり立てた。
「はあ? なるわけないじゃない。クニモリなんて。パパやママが悲しむもん。」
いつものシグレちゃんだった。
やっぱり、変わっていない。意地悪でプライドが高いくせに、信じられないくらいにあまったれ。
おかしくって、わたしは「あはははっ」とわらい出してしまった。
あ、このわらいかた。ちょっとユウヒににているかも。
「ちーちゃん?」
シグレちゃんが気味悪そうに、おそるおそるといった感じでわたしをよぶ。
わたしは、どうにかわらうのを止めると、真剣に言った。
「さっきのは、うそだから。シグレちゃんは、ぜったいクニモリにならないで。なったらだめ。」