ある、ミライ⑤

5.チェリという子

 向かいのビルに反射した夕日が、うすいカーテンごしに、部屋を染め上げている。
 燃え出しそうでいて、それでいてとろりとしたオレンジ色――赤。
 その水底に沈んだわたしは、溶けていきそうになる身体をどうにかなだめ、引き留めているところだ。
 しなやかなうで。脚。表情豊かな指先。引きしまったおなか。おしり、太もも。すっとのびた背すじ、首。――伸ばして、折りたたんで、開げて。しぼって、反らして。
 ていねいに、ひとつひとつを整えていく。
 どこも、どれも、思いえがく通りに動かし、止めることができる。それはすなわち、語れるということだ。つま先まで、力がみなぎっている。
 こんなにもすこやかな、わたしのからだ。
 そして、夜が来る。
 わたしは明かりをつけて、カーテンを開け放った。
 そこに、もうひとりわたしがいた。
 暗やみをすかした、窓ガラスの中に。五番ポジション。
 頭のてっぺんから出ている見えない糸で、天井からつるされている。――よし。きれい。
 わたしは優雅におじぎをすると、いつものように踊り始めた。
 ひとり(バリ)きり(アシ)の(オ)踊り(ン)を。

*****

 インターフォンが鳴っている。

 どこで? そのままの姿勢で、耳を澄ます。
 全てを踊り終えたわたしは、ひんやりとしたゆかにほおをつけ、うつぶせに目を閉じていた。
 気持ちいい。
 今まで、こんなふうにしたことはなかった。小さいころから、バレエの教室でもママからも、身体を冷やさないように、とさんざん言われてきた。でももう、必要ない。そういうのは終わったのだ。
 これから向かう場所では、この身体はダンサーではない。もちろん、女の子でもない。生理の知識はあるけれど、どうやら経験せずにすみそうだ。 ――やっぱり、鳴っている。インターフォン。
 目を開けようとしたのに、もっときつくつむってしまった。
 このまま、ゆかに吸いこまれていきそうな、そんな気がしてくる。
 ――チェリ? 智恵理ちゃん。
 だれ? そんなふうに呼ぶのは? ママ?  
 ――チェリ。中に、いるのよね? だいじょうぶ? 
 ――聞こえてるよね。お願い。開けて。
 ママじゃない。にているけれど、これは――
「――美鈴ちゃん。」
 声を出したとたん。
 ゆかに広がり同化しかけていたわたしの意識が、しゅるりと巻き取られて、もどった。
 わたしはゆかから引きはがすように身体を起こし、げんかんのドアを見つめた。
「チェリ。いるのなら、開けて。返事をして。」
 やっぱり、美鈴ちゃんだ。え、いつから? 
 もしかして、ずっとよんでいた? 
 歩いて行ってロックをはずすと、ドアが開いて、女の人が飛びこんできた。
「智恵理。」
「美鈴ちゃん。」
 よんでしまったものの、自信がなくなる。わたしは目の前のおとなを、まじまじと見つめた。
 初めて会った気こそしないけれど、前に何度か来てくれたケースワーカーさんだと言われたら、信じてしまうかもしれない。それに、そうだ。あの女の人――たしか、ミナト委員。
 あの人にも少し、にている。そう思った。
「よかった。心配したよ。――ううん。来るって言っておかなかったのが悪いよね。ごめんね。」
「……ううん。」
 話しているのを聞いてもやっぱり、しっくりしない。
「もしかして、寝てた?」
「うん。たぶん。」
 着ているものが原因かもしれない。わたしの知っているどの美鈴ちゃんの服とも、感じがちがう。落ち着いている、というか、地味というか、あまりオシャレではない。
「あの、今日は、」
 どうしたの? とたずねようとして、やめた。お別れを言いにきたのに決まっている。
 明日は、わたしの出発の日だ。
「夕ご飯、まだでしょ。いっしょに食べようと思って。デザートもあるよ。」
 美鈴ちゃんは、にっこりとわらうと、カウンターテーブルの上に紙パックをおいた。「サクランボ。好きでしょう。」
 夕ご飯、と聞いてぞっとしていたのに。
 そういうのがぜんぶ吹っ飛んでしまった。わたしが好きなのは、サクランボよりもイチゴ。覚えてくれていなかったのが、とてもうらめしい。それでも。
 なんて、きれいなんだろう。そう思った。ツヤツヤしている。
 コロン、とした形も。
 小さいのに、パァンと今にもはじけそうに、中身のつまった感じも。
 黄色からオレンジ、赤になるグラデーションも。
 かわいい。すてき。
「わたし、サクランボなんてひさしぶりに見た。」
「私だって。」
 美鈴ちゃんが、いたずらっぽく人さし指をくちびるの前に立てて言う。「でも、橋をわたるめいっ子にあげたいから、って言ったら、お店の人が、おくの方から出してきてくれた。くれぐれもよろしくって。がんばってって。ありがたいよね。」
「そう……なんだ。」
 夕ご飯と聞いたときよりも。もっと、ぞっとした。「……ありがとう。でも。」
「ん?」
 みんな、なんて優しいんだろう。
「ごめんね。ご飯、もう食べた。それに、やっぱりねむくて。」
「え……。あら。」
 わたしが言うと、美鈴ちゃんはちょっと変な顔をした。うそだとわかったのだと思う。
「サクランボ。うれしかった。でも、持って帰って理鈴にあげて。」
 理鈴の名前を出すと、美鈴ちゃんは今度ははっきりと顔を強ばらせた。
「だめ。それはチェリに持ってきたんだから。今食べなくても、明日の朝に食べなさい。」
 口調はきっぱりとしていたけれど、目線は、落ち着かなげにさまよっている。

 おとなになったら、クニを守りますとやくそくをした。

 それで、この区にいてもいいことになった。
 そうじ当番みたいなものだ。みんながやりたがらないことでも、だれかがやらないといけない。サクランボは、その対価、ごほうびというわけだ。
 戦争に行くのであれば、食べられる。
 食べたなら、戦地におもむかなければならない。
 ――少なくとも美鈴ちゃんの中ではきっと、そうなっている。
 だったら――そうだよね。
 理鈴に食べさせようなんて、思えないよね。サクランボ。
 わかっているのに。
『理鈴にあげて』なんて。
 わたしは、なんて人でなしなんだろう。
「トカチ」
「――え? なあに?」
 美鈴ちゃんが、やさしく聞き返してくれる。
「トカチ、って言ったんだよ。」
 ずっとむかし、あの子が使ったじゅもん。
「トカチ? それどういう意味?」
「52区のこと。知ってる? ここより、うんと北にあるらしいんだけど。」
 あ。
 52って、25をひっくり返した数字だ。一と十の位を。まさかそんなことで、トカチを気に入っていたとか? 
 そうなの? ユウヒ? 
 思いついて、なんだかおかしくて、うれしくなる。クスクスとわらうわたしを、美鈴ちゃんが、今度こそはっきりとおびえた目で見ている。
「……それで。その〈トカチ〉がどうしたの?」
 こわがらなくて、だいじょうぶなのに。ただのじゅもんなんだから。
「あのね。十、勝つって書くんだって。なんか、えんぎがいいよね。」
 ユウヒからそれを聞いたあのときは、まだ漢字は読めるだけで、書ける文字のほうは少なかった。何を説明されていたのかがわかったのは、何ヶ月かたってからだ。季節は、冬になっていた。わたしは、美鈴ちゃんに教えてあげた。
「トカチって、すごく寒いんだって。雪が降って、積もって、それがとけないんだって。何もかも、真っ白になるって。」
 あの冬には毎日、ユウヒにそのことを言いたくて、でもできなかった。そばに、サクラがいたし、いなくても、どうやって自分から話しかければいいのか、やり方がわからなかった。――ああ、会いたい。ユウヒに。
 橋をわたれば、会えるだろうか。
 サクラでもいい。
 どうせ、「むかつく。」って言われるだろうけど。そうしたら言い返してやる。「こっちだってむかつくよ。」って。
 会いたい。
「智恵理。あなたまさか、橋をわたらないなんて――。」
「……サクランボ、おいしそう。」
 美鈴ちゃんは何か言いたそうだったけれど、わたしがそう言うとだまりこんだ。
「だいじょうぶ、食べるから。明日の朝。ここを出る前に。」

 シャワーの水しぶきの音のすきまから、美鈴ちゃんが帰って行くのがわかった。
 そんなはずがないのに、聞こえた気がした。
 チェリ。にげなさい。と。

 わたしはバスルームから出て、宝石のような果実をひとつつまむと、口にふくんだ。
 甘い。甘くてすっぱい。――オイシイ。
 そう思った瞬間。
 みぞおちのあたりから、熱いものがせり上がってきた。とっさに、ダストボックスを引き寄せる。
「うえええっ。」
 胃液といっしょに、なみだと鼻水がふき出た。食べられないって。わかっていたのに。

 これは、氷。
 そう念じて、氷砂糖をひとつ、舌の上にのせる。
 たちまち口の中いっぱいに、だ液があふれてくる。耳の下のところがじわりと痛む。――ちがう、これは氷。もう一度となえ、やりすごす。朝まで起きているには、これは必要な補給なのだ。
 夜の間に、ジャムを煮ようと思った。もちろん、サクランボの。
 材料なら、ここに全部ある。作りかたはさっき、タブレットで調べた。
 砂糖は氷砂糖でもいいだろうし、レモン汁も、びん入りのが冷蔵庫に入っている。
 なべだけは、ふつうのを使うしかない。ホーローのなべというのがどういうものか、よくわからなかった。
 煮ている間、ていねいにストレッチをする。とろ火というのにすれば、なべの前につきっきりにならなくてよさそうだ。合い間にあと一回、もしかしたら二回くらいはたぶん踊れる。まだ、朝はこない。

 朝になったら、わたしは橋を渡る。
 橋の向こうには戦争がある。
 それがどういうもので、敵はだれか、何をさせられるのかも、わからない。
 どこに連れていかれるのか。それもわからない。
 兵士として、わたしが、敵の兵士を殺すのだろうか。まさか、そんなことがあるのだろうか。子供なのに? あるいは殺されるということも? まさか、そんな、けれども。
 あるのだ。
 7区で、わたしは何を見た? 
 生まれ育ったあそこがどうなったか、知っているくせに。
 それともあれを、早くも〈すごくむかし〉のことだと言い張るのか。

 わたしはジャムを煮る。
 人を殺す、あるいは殺されるかもしれないわたしが、ただの少女として最後の夜に、ひとりきりで煮こむジャム。
 みなの優しさも後ろめたさも、この夜の静けさ、おだやかさも。
 いっしょくたにして。煮つめていく。
 甘くてすっぱくて、とろり、とつやめく赤。
 この身体の代わりに、残していく。
 未来に。
 わたしが、生きたあかし。


             【終わり】

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