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最後の一日はお前と一緒に(藤沢泰大)

【カテゴリ】小説
【文字数】約11000文字
【あらすじ】
山﨑太郎。三十九歳。背番号五十一。『左殺し』の異名を持つベテランバッターは、二〇三〇年九月のきょう、引退試合を迎える。世界的な感染症によって興業が大きく左右された激動の時代。その渦中を二軍からの生え抜きとして駆け抜けた彼は、最後の打席で何を思うのか――

【著者プロフィール】
藤沢泰大。2002年頃にネットの中でも特に日の当たらない隅っこ(2chなど)で愚にもつかない駄文をしたためたのが始まり。その後、就職→結婚と時は過ぎいつの間にやら2020年、執筆道具もパソコンからiPhoneへと変わり、未だに書いている。楽しいからです。熱を持てるからです。読む人に、それが少しでも伝わればいいと願っています。

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 自然な目覚めだった。普段ならけたたましく騒ぎ立てるスマートフォンの目覚まし機能、そういえば昨夜止めておいた。表面をタッチして時間を見ると九時半を少し過ぎたところ。俺は軽く伸びをして、背筋から上腕にかけての駆動を確認する。硬い。今日に限った話ではなく、ここ数年で徐々に進んでいる感じ。要は加齢だ。

 リビングはもぬけの殻だった。テーブルには妻の残した書き置き。『おはようございます。こんな日に快晴で何よりです。朝ご飯は冷蔵庫にあります。今日は仕事を早抜けして、球場へ行きますね』

 窓を見ると、薄手のカーテン越しに太陽の光が差し込んでいる。暦は秋なのに、そうとは思えないくらいに強い陽射しだ。暑くなるかもな、と思いながら冷蔵庫を開ける。ご飯茶碗やおかずの盛られた平皿を取り出すと、底はほのかに温かい。でも電子レンジにそのまま突っ込む。

 今日は何日だっけ、と思い出そうとする。忘れてはいけない日なのだけど、思い出せない。こういうのも受け入れなきゃならないよな、と切ない感覚を覚えながらキッチンのカレンダーに目を遣る。九月だ。そして二十九日、日曜日。妻がその日に太い赤ペンで丸を囲ってくれてるからすぐに分かった。大事な一日だ、と思ってくれているのが伝わる。

 今日は二〇三〇年九月二十九日。人生最後の一日は、こんな風にして穏やかに始まるものか。こんな感じで本当にいいのか、と若干の気の焦りが生じてくる。電子レンジからうるさい音がしたのですぐに扉を開けた。

 ずっと広島市に住んでいる。

 この仕事に就くまで訪れることのなかった土地。そんなところに、もう十六年以上も居続けている。生まれも育ちも埼玉で、大学は東京だったが実家からの通いだった。月並みな表現だけど、今や第二の故郷だ。この後もお世話になるし、埼玉に住んでいた年数を超えるのも時間の問題だろう。

 広島市内の通勤は本当に久し振りだったが、経路はしっかり頭に入っていて迷わない。運転していてもしっくりくる道だ。路面電車とすれ違っても慌てない。運転のし初めは衝突しそうな気がして怖かったのを覚えている。

 球場の関係者用駐車場に着いて、俺の指定席にバックで入れようとすると、先客がいることに気付いた。ハンドルを切ってその隣に停める。そうだ、もはや俺に“指定席”などなかったんだ。時の流れをこんなところで感じてしまった。

 車を降りて、仕事道具の詰まったバッグを左肩にかける。利き腕では重い物を持たないようにしている。何故なら、腕もまた大事な仕事道具なのだから。もっとも、これは球団の大先輩からの請け売りなのだけれど。

 その足で球場内のロッカールームを目指す途中、数人の記者の姿が確認できた。知っている顔もあれば、そうでない人も。俺がここに来ないようになった間に、部署異動になったり退職した記者もいたんだろうな、と思う。

「山﨑さん、お久し振りです」

 遠くからそう声をかけてきたのは、スポーツ新聞の記者、松橋さんだ。異動が多く、数年で顔ぶれがガラッと変わることの多い記者の中でも、あの人はずっとこのチームの担当記者としてチームや選手の状況を伝え続けてくれている。そんなこともあって、記者の先頭に立っての第一声は、やはり松橋さんだった。俺は頭を一つ下げる。そのまま立ち止まっていると、松橋さん達が苦笑いを浮かべた。そこでようやく思い出した。俺は小走りで取材エリアまで走った。試合前の駐車場内での取材はエリアが決められているのをすっかり忘れていたのだった。二〇二〇年に世界を大きく騒がせた感染症で、日本のプロ野球も感染対策を迫られた。そしてそれ以降も新たな感染症問題が発生するたびに規制が強化され、今では《取材は取材エリア内のみ、記者は仕切られたエリアの外側から質問する》ルールを厳格に運用しなければならなくなってしまっていた。ただ、二軍にいると忘れてしまうのだ。何故なら、取材をほとんど受けないから。

「……お待たせしました」
「いえいえ、久し振りですもんね……。どうですか、今日の調子は」
「この歳になると別に普段と変わらないですねえ。良くもなく悪くもなく、というか。眠った時間はいつもより長いですけどね、目覚ましかけなかったから」
「二軍の練習場、遠いですもんね。県外だし」
「えぇ。それでも家から通勤したかったから、早起きしてましたよ。皆さんは由宇(ゆう)までは取材に来ませんよね?」

 そう言うと、記者は一様に顔を見合わせた。分かる。時間は有限なのだ。

「……イヤミじゃないです。すみません」
「ところで、監督は『後半で一打席、どんな試合展開でも出すよ』と発言されてましたけど、守備に就く予定は?」
「どうなんですかね? ないと思いますけど。もうおっさんなので、最後に思い出作らせてもらって。ワガママ聞いて頂いて、ありがたい限りです」
「選手として終えられても、ファンはまだその先があると思っていますけど」

 その質問には、まだ答えない方がいいな。

「どうでしょうかね。とにかく、まず今日を無事に終えて。一区切りつけてから色々考えたいと思ってます。では、また」

 そう言い残し、松橋さん達に一礼してから、俺は球場に入った。「がんばってください!」と後ろから声が聞こえた。


 ロッカールームで着替え終わって、グラウンドに出る。人影はまばらだ。午後六時からのナイトゲームで、昼前の入りは少し早目だから当然ではある。そのおかげで、集中してランニングできる。

 ふと、考える。これまでのこと。走馬灯に近いものか。

 ずっと野球をしてきた。小学校からスポーツ少年団、中学、高校と野球部。大学には推薦ではなく一般受験で入り、運良くそこでレギュラーの座を掴むことができた。大学の四年間がなければ、甲子園など無縁の県大会三回戦負けが最高成績だった俺などプロ入りするはずもなかった。この安芸島アイロンズという広島のプロ野球チームが俺を拾ってくれたのが、二〇一三年の秋のドラフト会議。四巡目での指名だったが、色々な人から「可能性がある」と言ってもらえていた上でもまだ信じていなかったから驚いた。プロに行く選手というのは、中学でもう硬式野球のクラブチームに入っていて、高校ではプロ野球選手養成所のような野球名門高校に所属し、甲子園出場、あるいはそれに準ずる成績を残し、アマチュア野球雑誌にその名が踊るような——そんな人達が選ばれる世界だと思っていた。中学時代に軟式野球部で、学校の狭いグラウンドで球遊びをしていたようなレベルの自分が昇れる場所とは全く思っていなかった。確かに、大学からは自分なりに本気で野球に取り組んできたとは思う。それでも、出自が悪かった。

 ともあれ、二〇一四年。俺はプロ野球選手として一年目を迎えた。初の春季キャンプ。今でも忘れない。全く通用しなかった。体力はもちろん、精神的にも。これが“選りすぐられた人しかいない世界”か——。キャンプが終わる頃には、自分が何故ここにユニフォームを与えられて存在しているのか、よく分からなくなっていた。

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