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【全文無料】未来社会における時間認識の姿2/5―「今」と「はやさ」を全面的に肯定する日本人 (藤平泰徳)

【カテゴリ】評論
【文字数】約5800文字
【あらすじ】
科学技術の進歩により、私たちは様々なことを「時間をかけずに」できるようになった。だが、新しい技術やサービスの恩恵を、全人類が一様に受け取れるわけではない。地域の差、知識の差、情報の差、貧富の差によって、ある物事を行うのにかかる「時間」は異なるだろう。その事実はやがて個々人の「時間認識」のズレとなり、社会に亀裂を生む原因となるかもしれない。
本連載では、現代社会の時間認識の構造と問題点をあぶり出し、その分断を乗り越える「新たな時間認識」の未来図を素描する。(全五回)

【著者プロフィール】
藤平泰徳。フリーライター。ビジネスメディアにノウハウ記事、アニメ声優サイトにイベントレポートなど、ジャンルレスでさまざまな文章を寄稿。元書店員として、本屋に関するコラムも執筆。【時間】の観点から、人間関係、生き方について、ひっそりと研究中。https://nanadori.net/

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日本社会は、世界に負けじと科学技術を発展させてきた。

ところが、皮肉にも、それによって社会が分断される可能性が生まれようとしている。それにより時間認識にズレが生まれ、個々人の生き辛さや人間関係の苦しさが来訪することを第1章で見てきた。

本連載では、そうした未来に立ち向かう方法として、一度社会によって規定された時間認識は社会と相互に及ぼし合う関係性を逆手に取り、新たな時間認識を提示することを目的としている。

時間認識は各社会に基づいて形成される。私たちは3年後、5年後の人生設計を当たり前のように立てることができるが、その感覚を持たない人々もこの世界にはいるのだ。

では、そもそも今の日本人は、どのような時間認識を持っているだろうか。過去、現在、未来に対して私たちはどのように向き合っているのだろうか。

本章では、現代の日本社会、またそこに生きる私たちが持つ時間認識の特徴を再確認する。現状を正確に把握することで、新たな時間認識は単なる空想物語に留まらず、より現実的な解決策として私たちに寄り添ってくれるであろう。

①今日の時間認識はいつ生まれたのか

今日、私たち日本人の間には、時間に対して一定の共通認識(時間認識)がある。ある人が「時間がない」と言えば「忙しいのかな」と想像し、ある人が「時間がほしい」と言えば「何かやりたいことがあるのかな」と思いを巡らす。

共通認識されている時間とは何か。紛れもなく、「時間」「分」「秒」などで区切られるそれである。

まずは、この認識が生まれた時期を確認してみよう。『日本書紀』に、次のような記述がある。ときは天智天皇10年(671年)。

『夏四月二十五日、漏剋(水時計)を新しい台の上におき、はじめて鐘・鼓を打って時刻を知らせた。この漏剋は天皇がまだ皇太子であった時に、始めて自分でお造りになったものであるという。』(※1)

漏剋(水時計)とは、容器に水を注ぐと水面の高さが変化することを利用して、時を計ることを目的とした器具である。天皇とは、もちろん天智天皇のこと。三宅和朗は、これを受けて次のように言及する。

『古代国家は七世紀後半、漏剋を導入し、時刻(定時法)を鼓・鐘によって報知することで天皇や貴族の政務、都で暮らす人々の生活を規制するようになった。』(※2)

ここで言う時刻が、まさしく私たちが今日認識している時間に対応していることは間違いない。

ところで、『日本書紀』の同様の部分を引用した真木悠介は、次のように述べている。

『時を刻んで鳴りわたる鐘や鼓の音は、古代の民衆生活の中に、昼、夜という異質の両世界をつらぬく共通の抽象化された時間の観念をはじめて導入したはずである。』(※3)

この「昼、夜という異質の両世界」とは何を意味しているだろうか。

実は古代の人たちは、現代のように昼と夜をセットにして「一日」とカウントする習慣がなかった。夜は鬼や神などの異質な存在が活動する時間(世界)とされ、昼の時間(世界)とはっきり区別されていたのである。

しかし当時、統治を目論んでいた国家は、中国(隋)の影響を受けて律令制を実施する。政策の一環として「共通の抽象化された時間」=時刻を導入し、朝と夜の両世界をひと括りにした。

律令制は、周知の通り、農作物や繊維製品を税の対象とした。これもまた、制度下の人たちの生活を大きく変えることとなった。真木は以下のように言及する。

『律令国家の庸・調として毎年絹布を朝廷にさしだすことは、もっぱら麻を衣料としていたこの当時の農民にとって、たんに量的な剰余労働時間の収奪であったばかりではなく、ひとつの異質な労働時間(および空間)の生活世界へのわりこみであった。』(※4)

かつての人たちは、急にわりこんできた異質な労働時間=時刻に戸惑いを感じたことだろう。その中で、しかるべき税を納めるため、農作物を効率よく育てるにはどの作業をどのタイミングで行えばいいのか、時刻を常に意識しながら農耕に励まざるを得なくなったと想像する。

かくして誕生した時刻は、歴史と共に歩みを始めることになった。

突然、全国に広まったわけではないが、16世紀中頃には時計の制作法がキリスト教とともに伝来したと言われている。江戸時代に入ると、鎖国の影響で西洋の技術は下火となったものの、代わって日本特有の和時計が普及した。

時刻に対するニーズは確かにあり、多くの日本人の生活や態度が時刻によって着々と変わったことは間違いないだろう。

1872年には、いよいよ歴史的な大転換を迎える。太政官布告による太陽太陰暦から太陽暦への改暦、それに伴う不定時法から定時法への変更、すなわち今日に続く24時間制度の始まりである。

1875年には東京麻布の金元社で柱時計が初めて作られ、1894年には大阪時計製造による工場生産がスタートした。

政府が決めた時刻により、制度下にいる人々の生活に影響が及ぶ様は、律令制時代のそれと重なる。当時の人もまた働くため、生活するため、ひいては生きるために時刻を意識せざるを得なかったはずだ。

人々の時計に対する需要は着々と増え続け、第二次世界大戦中においても作れば売れる状況であったという。戦後になると、景気上昇の後押しを受けて、より爆発的な伸びを見せることとなった(※5)。

②「今」を大切にする日本人

時計の普及は明らかに時刻の浸透に寄与した。物心がつく頃には“時計が示す時間が時間である”と信じる人が増えたのは、各家庭に時計が置かれるようになったことが大きいと考えられる。

私たちは今、時間と言われれば、「時間」「分」「秒」と思う。この瞬間を現在、それよりも○○分前を過去、○○分後を未来であると思う。時は過去から未来に向かって“たえず流れ、戻らない”。

それは1,300年という長い歴史の中で受け継がれた認識である。当たり前だと思ってしまうのは最もなことなのかもしれない。現在、近代国家同士が時刻を共有していることを鑑みれば、同様の認識形成の流れは他国でも少なからず見られるだろう。

しかし一方で、日本人ならではの時間認識というものが存在する。

加藤周一は、文学や音楽の特徴を引きながら、『日本文化の中で「時間」の典型的な表象は、一種の現在主義である』(※6)と言う。

『鎌倉時代に流行した絵巻物の一場面は、全体の話のすじから切り離しても十分に愉しむことができる。徳川時代から近代にかけて書かれた途方もない数の随筆集は、相互に関連するところ少ない断片的文章から成るが、個別の文章を全体から切りはなして読んでも味わいが深い。それは『枕草子』以来『玉勝間』を通って今日に到る文学的伝統の一つである。そこには日本的時間の表象の著しい特徴が実に鮮やかに反映されている。』(※7)

また加藤は、その文化的伝統は、私たちの日常生活の習慣を見れば今も決して滅びていないと述べる。

『日本文化の中では、原則として、過去は――殊に不都合な過去は――、「水に流す」ことができる。同時に未来を思い患う必要はない。「明日は明日の風が吹く」。地震は起こるだろうし、バブル経済ははじけるだろう。(中略)要するに未来を考えずに現在の利益をめざして動き、失敗すれば水に流すか、少なくとも流そうと努力する。その努力の内容は、「誠心誠意」すなわち「心の問題」であり、行為が社会にどういう結果を及ぼしたか(結果責任)よりも、当事者がどういう意図をもって行動したか(意図の善悪)が話の中心になるだろう。』(※8)

加藤が指摘する現在=今を中心とする日本人の生活習慣(※9)は、社会の環境に揉まれ、色濃くなりつつある。

NHK放送文化研究所が1973年以降、5年おきに行っている日本人の意識調査の一項目に、生活目標を決定づける価値観から、現在中心(現在に重点を置いている)の人と、未来中心の人(未来に重点を置いている人)の割合の調査がある。

それによれば、現在中心の人の割合は着実に増えており、1973年は52%だったのに対して2018年は72%に到達。一方の未来中心の考え方は、1973年は46%だったのに対し、2018年は28%と大きく減少していた。

また同調査では、年層別の結果も示しており、全年層において1973年より2018年のほうが現在中心があきらかに多い。

NHK放送文化研究所は、結果を受けて次のように結論づける。

『明るい将来への見通しが立ちにくく、漠然とした不安が社会を取り巻く中、人々の間に「現在」を大事にしようという気持ちが高まっているのではないだろうか。』(※10)

結局いくら必要になるのかわからない老後。いつ起きるのかわからない大災害。頼りになるのかまったく判断し難い国と政治。

だから日本人は「今」を大切にする。今生きていること、今家族と生活していること、今友人と遊んでいることを重要視する(※11)。

③「はやさ」の肯定神話

もうひとつ、日本人の時間認識を特徴をあげよう。「はやさ」の全面的賛同である。

仕事のタスクを早く終わらせることに誰も否定はしない。いかに短い時間で成果を出せるかは、今やビジネスマンが持つべきステータスとして当たり前になっている。

効率、効率と言う環境に、否定する気持ちを持つ人はいる。しかし上司や先輩、周りからのプレッシャーによって、声高に「仕事が遅くてもいいじゃないか!」と主張できる人はあまりいない。

むしろ、自分の仕事の遅さを改善しようとする方向にシフトする。書店に行き、「仕事を効率よくこなせる方法」「タスクをスピーディーに終わらせるメソッド」と謳う本があれば、つい手にとってしまう。

もちろん、仕事だけに限らず、プライベートシーンでも同様に「はやさ」が肯定されている。「時短レシピ」は、何よりの典型例ではなかろうか。

乗り物も「はやい」ほうがいい。だから私たちは多少の金銭を犠牲にして、鈍行ではなく新幹線を選び、東京から大阪へと向かう。

夜行バスが好きだから乗るのではない。安いから夜行バスを使うのだ。もし新幹線と夜行バスが同じ金額となれば、多くの人が新幹線の座席の確保に急ぐのではなかろうか。

「はやさ」は正義であり、決して裏切らない。ここまで「はやいことがいい」と信じているのは、私たちが「今」を大切にしているからに他ならない。

「今」を充実させるためには、そもそも「今」という時間に余裕を作る必要がある。趣味をするにしても、家族との時間を大切にするにしても、仕事で評価を得るためにも、「今」自由であることが条件となる。だから、日本人は「はやさ」を求めてしまう。

「今」の重視と「はやさ」の神格化。これが現代の日本人が持つ時間認識の特徴である。

ところが厄介なことに、こうした特徴があるゆえに、今後社会の分断が容易に想定される。「今」と「はやさ」が基本的には両立し得ず、この相反性が科学技術の発展によって大きくなるためだ。

第3章では、まず何がどう両立し得ないのかを説明をしよう。それが明らかとなれば、社会が分断される様がよりリアルに見えてくる。そのとき私たちは、本当の問題と正しく対峙できるようになる。
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(※1)宇治谷孟『日本書紀 全現代語訳』下巻 講談社 1988 p.237
(※2)三宅和朗『時間の古代史』 吉川弘文館 2010 p.165
(※3)真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店 2003 p.124
(※4)同書 p.129
(※5)日本時計協会・日本の時計産業慨史
(※6)加藤周一『日本文化における時間と空間』岩波書店 2007 p.233
(※7)同書 p.233
(※8)同書 p.233-234

(※9)加藤周一は、『日本文化における時間と空間』を書いたきっかけとして、1950年代のパリでの生活や、1970から1980年代にかけて行った日本、中国、メキシコ、北米および西欧各地の放浪などを述べている。これらの経験を通して、『私は、早く/進む時間、一直線的に一方向へ向う有限/無限の時間、循環するまたは循環しない時間の、どの時間概念が日本文化を特徴づけているか、次第に強い興味をもつようになった』という(同書 p.261-262)。
一方、九鬼周造もまた、ヨーロッパで時間を過ごし、ヨーロッパ人による日本人や日本文化への誤解を払拭しようと努める中で「永遠の今」を説いた。その背景には祖国の状況に対して危惧の念があったからではないかとされている(九鬼周造・小浜喜信編『時間論 他二篇』岩波書店 2016 p.336-337)。本連載の主旨からは逸れるためここまでに留めるが、いずれにしても西欧の経験、比較を通して日本文化の「今」に着目している流れは非常に興味深い。
(※10)NHK放送文化研究所編『現代の日本人意識構造[第九版]』NHK出版 2020 p.207
(※11)日本の現代人が「今」に対する強い意識を持っていることを鮮明に描き出した作品は少なくない。直近の例だとTVアニメ『ハクション大魔王2020』がある。
同作は、『ハクション大魔王』(以降、前作)の50年後の世界を描いた続編。第1話は前作でハクション大魔王が与田山かんいちの元に現れたのと同様に、アクビ(ハクション大魔王の娘)が与田山カン太郎(かんいちの孫)の元に現れる。
ところが、カン太郎はアクビからの「将来の夢を叶えてあげる」という申し出に対して「叶えたい夢なんてない」と断ってしまう(一方のかんいちは、「ここを秘密の部屋にしてほしい」「僕にいじわるする犬をやっつけてほしい」など、速攻でハクション大魔王に依頼している。参考:第1話「出ました大魔王の話」)。
ここでの面白さは、単に前作との対比だけではない。現代を生きる子どもたちの意識を警鐘する(あるいは皮肉る)かのような描写である。
第1話内で(アクビの後からやってきた)ハクション大魔王がカン太郎が夢を持っていないことに対して嘆く、公式サイトのカン太郎の紹介文「勉強も運動もそこそこ出来るが頑張ってそれ以上になろうという気はなく、いまのところ将来の夢もとくにない現代っ子(引用・読売テレビ『ハクション大魔王2020』キャラクター・与田山カン太郎)」などは、その表れと言えるだろう。
実はこうした時間認識に対する冷静な眼差しが、科学技術の発展に伴い、苦しみやつらさと変わる。詳しくは次章で述べる。

(次回へ続く)

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