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ズボラな社会人13年目、理想と現実のギャップに挑戦する。

やらなきゃいけないことが山積みなのに、集中力が全く働かない。

そういう日もあるよね。というレベルの話ではなく、ほぼ毎日だ。

なぜここまでズボラなのかと悲観し心底自分を嫌だと思った時もあったが、徐々に自分を受け入れられるようになってきた。(というか、理想と現実のギャップに対する感受性が衰えたというべきか)

だから、鋭い感性を持ち自分を受け入れることが難しく、自ら未来を断つ人のことを想うとやるせなくなる。それはぼんやりとした不安だったのか、耐え難い苦しみだったのか。私は本気で死のうとしたことは無いから、彼ら彼女らの気持ちを想像することは出来ないが、残された人たちがいつか乗り越えて、自分の人生を幸せに歩んで欲しいな、とは、他人事ながらちょっと思ったりする。


さておき。

やらなければならないことは、

・3日後に迫った引っ越しの準備

・下期(10月~3月)の仕事の計画、評価面談準備

・大学の聴講講義の勉強

・10月から始めるプロボノプロジェクトの準備

なんだか富士山並みに意識高いtodoリストになってしまったね。

優先度と緊急度で整理すると、絶対に、引っ越し準備。

引っ越し代を極限まで節約したため、軽トラ1往路2時間勝負で済まさなければならない。転居先は今の家から1キロも離れていないので、大きなものだけ業者にお願いし、それ以外はキャリーケースとリュックで往復しまくる予定。仕事を休めるのは引っ越し日だけ。梅田あたりで早朝と夜にこんもり荷物でゴロゴロをひく怪しい女性がいたら、それは私です。

そう、そんなに切迫しているのに私は今、散らかった部屋でnoteを書いている。しかもテーマは一番緊急度の低い大学の聴講授業。

セルフハンディキャッピング?

※※※※※

聴講というのは、学生でない人が大学で学ぶための方法の一つだ。手続きと数万円を払えば、1単位から大学の授業に潜り込むことが出来る。私は秋学期から、とある私立大学で計量社会学の講義の聴講を始めた(なぜその講義を選択したかはまた後日書きたいと思う)。

先週金曜日が初回の講義だったのだが、これが本当に懐かしく、楽しかった。

1回生向けの講義であるため、私の半分くらいの年齢の学生たちが集まっている。春学期はリモート講義だったからか、初めての対面講義に慣れておらず、あまり話せない社会的圧力も相まって非常に静か。そりゃそうだよね、新歓のサークル活動とかリアル飲み会とかしてないだろうし。実際に会うのは初めましてくらいの勢いよね。この秋学期で絆を深めて欲しいね。

先生はいかにも「大学の教授み」を感じる、ツボに入る人だった。40代半ばくらいの男性、半笑いで一人自虐ボケ突っ込みをし続ける、いわゆるオタクぽい話し方といえばそのものだ。

まだ心理的・物理的距離のある学生同士、zoom講義を受けている画面の向こう、広めの講義室の全てに漂うぎこちない雰囲気。

それらをものともせず、ソーシャルディスタンスでプリントを配るなという大学のお達しに対しての葛藤、小学3年生の息子の最近の口癖、対面だと受講する学生がどんどん減りzoom講義になりがちである寂しさ、など小ネタを挟みつつ、統計や数字がいかに有用で素晴らしいものなのかを話し続ける。

マスクを付けて長時間話すのに慣れていないらしく、たまに息が切れる。が、話したい意欲が勝り、はあはあ言いながらしゃべる。

その姿と、知性と理屈ぽさが上手く混じった言葉のチョイス、バカ正直な話ぶりを見て、私は、この先生がとても好きになった。

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私は人の話を聴く仕事をしている。この人はなぜそういう事を言うのか?そんな行動を取るのか?の背景を想像したり、この人は何を言って欲しいのか?何を求めているのか?の本音を探ろうとしたり、言葉ではなく間や表情から本音を読み取ろうとする。

そして、仕事中に自分が話すことは「周囲から期待されること、あるべきこと、基準から外れないこと」だ。四六時中脈絡のないことを考えてはいるが、それを急に発言したり、相手がどう感じるかを想像せず話し続けることは無い。あくまで、求められている(であろう)ことを話す。

まあいわゆる社会人って割とそうだよね。社内外で業務上話す場面ではみんなこんな感じ。だからかな、この先生のように、伝えたくてたまらないことを、相手の反応ガン無視で話し続けることに痛快さを感じる。


15年前、私が学生だった時も、こういう先生はいたな~。

その時は、変わってる人だな、という程度の思い出だったが、社会人13年目を迎えた今、それは「集中力と熱量」なんだと気づく。

自分の研究内容に対する圧倒的熱量。これで食っていくと決めた覚悟感。この学問の素晴らしさを、若く未来ある学生に伝えたい気持ち。その集中力と熱量が無ければ、きっと研究者の道には進めないんだろう。

少なくとも私にはそれはない。

何かを突き詰めたり、大成することはきっと無いだろう。中途半端に、チマチマとバランス取って、人の顔色を伺いながら生きていくんだと思う。そんな自分が嫌だな、と思うこともなく、自分を受け入れているつもりだ。

でも…

集中力と熱量の無いひたすらズボラな自分に、ちょっとだけ喝を与えるべく、聴講やプロボノ活動に手を出してみたのも事実。

富士山並みの高い意識はかくして生まれたのだった。


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今思ったけど、あの先生が学生の前でしていたように、私はnoteでこうしてしゃべり倒してる。

ということは…この行為はセルフハンディキャッピングではなく、集中力と熱量の賜物かもしれない。

よし、なんか…頑張るぞ!







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