イスラエル・パレスチナ問題を知る ~リクード編~
リクードは1973年にベギンらによって結成された、現代のイスラエルの政党で、軍事力の強化による領土の拡大を主張しており、対アラブでも強硬な右派政党です。1973年にメナヘム・ベギンらが、へルートなど複数の右派政党を糾合し結党しました。
ベギンは軍人出身、イスラエルが建国された1948年のパレスチナ戦争でのイスラエル軍によるパレスチナ人虐殺事件であるデイル・ヤシーン村事件(※)の責任者でした。ベギンは政界に転じてからは、シオニズム主流派の釈迦主義的な路線をとる労働党政権がパレスチナ分割案を受容したことに反発して、「修正シオニズム」といわれる軍事力強化による「大イスラエル」(ヨルダン川西岸も含めた全土をイスラエル領と主張する)を唱え、右派強硬派の指導者となりました。
イスラエルが中東戦争で軍事的勝利を重ね、占領地を拡大していく中で次第にその指示を強め、ついに1973年に右派を結集してリクード党を結成しました。リクードとは団結を意味しています。
タカ派として知られたリクード党首ベギンは1977年の選挙で党首ベギンがイスラエル首相に就任、政権を獲得しました。政権につくと、ベギンはエジプトとの和平交渉に応じるなど、柔軟な現実路線をとり、世界を驚かせることになりました。
1978年9月、イスラエル首相のベギンはエジプトのサダト大統領のエジプト=イスラエル和平交渉に応じ、米国大統領カーターの仲介によってキャンプ=デービット合意に至りました。それを受けて、1979年3月26日にエジプト=イスラエル平和条約を締結し、同時にシナイ半島の返還を認めました。ベギンはその功績によって、サダト大統領とともにノーベル平和賞を受賞しました。しかし、エジプト=イスラエル平和条約は中東和平を実現させるには至らず、新たな対立を生み出すことになりました。
しかし、リクードのベギン首相はイスラエル占領下のパレスチナ人の自治問題ではほとんど何も取り組みませんでした。エジプトとの和平を実現して南方の安全を確保したベギンのイスラエルは、ベイルートのパレスチナ解放機構(PLO)の拠点をたたくことに転じ、1982年にレバノン侵攻を実行しました。これは第5次中東戦争ともいわれる実質的な戦争であり、ベギンの強硬姿勢に対する国際世論の非難も高まりましたが、イスラエルの攻撃は止まず、結局PLOはベイルートを脱出し、チュニスに逃れることになりました。
イスラエル軍のレバノン侵攻では、真イスラエルのキリスト教マロン派武装勢力(ファラジスト)によるパレスチナ人虐殺事件も起きて国内にも批判が生じ、ベギンは1983年に辞任、同じくリクードのシャミルが首相となりました。
シャミル首相の後、ネタニヤフ政権を経て1999年に労働党に敗れバラク政権に譲りましたが、2001年にリクード党のシャロンが首相に選ばれ、政権与党に復帰しました。シャロンは軍人出身で対パレスチナ強硬派として知られていましたが、首相就任後は初めてパレスチナ国家の存在を認め、和平構想のロードマップ合意にも応じたため、リクードは分裂し、シャロンは新たに中道派政党ガディマを立ち上げました。
2005年12月のリクードの党首選でネタニヤフが次点のシルバン・シャロームに10ポイント以上の差をつけて圧勝。しかし、シャロン派・集団離党の余波を押さえきれず、2006年3月28日の総選挙ではリクードは大敗を喫します。わずか12議席に落ち込むものの、ネタニヤフは開票後の声明で「和平と治安の両立、この2つの大義が支持される時が必ず来る」と協調、党首辞任を拒否し、3年後の政権交代に繋げました。
2009年、復活したネタニヤフ率いるリクードを中心とした連立内閣が成立しました。ネタニヤフは第2次から第4次政権と続きましたが、その後贈収賄事件で起訴されました。
2021年3月23日に執行された総選挙ではリクードが第1党となり、4月6日に組閣を要請されたものの5月4日に組閣を断念。6月3日、極右翼や、中道のイェシュ・アティッドなど野党8党が連立政権樹立で合意し、議会は6月13日にナフタリ・ベネット新内閣を承認、第1次内閣を含めて15年にネタニヤフ政権は終焉を迎えました。
その後、2022年11月の総選挙で勝利し、第1党となったネタニヤフの「リクード」を中心に、連立政権を樹立しました。
総選挙で最も注目された点は、宗教シオニズムを掲げる極右政党の連合「宗教シオニズム/ユダヤの力」が、前回選挙(2021年3月)より議席を倍以上に増やしたことでした。宗教シオニズムはユダヤ人による「約束の地(イスラエルの地)」に対する支配の強化がメシア(救世主)の到来を早めるという宗教解釈に立脚したシオニズムの一形態であり、政治的にはヨルダン川西岸の併合や入植活動の推進、さらに国内政治でのユダヤ人の権利拡大などを主張している勢力です。
極右政党が躍進した結果、連立政権には従来からネタニヤフが率いるリクードに加え、選挙後に連合を解消した極右の「宗教シオニズム」、「ユダヤの力」、「ノア」の3党、およびユダヤ教超正統派を支持基盤とするシャス、統一トーラーの6党が参加することとなりました。自らの首相返り咲きを最優先したネタニヤフは、連立交渉の過程で各党の要求を次々と受け入れました。
極右の政党は、過激なパレスチナ政策をとり、パレスチナへの入植活動を強めていきました。そして、この過激な入植活動は2023年10月7日のハマスによるイスラエルの奇襲攻撃の一つの要因となっていきます。
2023年11月21日現在、イスラエルによるパレスチナへの攻撃は続いており、多くの人々が犠牲となっています。
このガザ地区への攻撃を続けているイスラエルの連立政権の第1党がリクードです。
※デイル・ヤシーン村事件
デイル・ヤシーン村は、英国委任統治領パレスチナ政府の統計によると、1945年時点の人口は610人であり、事件当時の人口は、村民の証言から750人前後と推測されています。
事件当時、英国委任統治領パレスチナでは、イスラエル独立前からユダヤ人とアラブ人間の武装勢力によるテロが激化し、実質上の戦争状態に入っていました。1948年4月、ユダヤ人武装組織イルグン、レヒ部隊が、エルサレム西部のアラブ人村落のデイル・ヤシーン村を包囲し、村を占拠した後、老人、女性、子供を含む非武装の村民たちを虐殺しました。
犠牲となった住民の総数は、事件後に出された推定では254人とされ、それが広く流布されていましたが、最近の研究では107人から120人の間であると推定される説も出ています。過大な数字が流布したのは、イルグン・レヒ側が自発的に虐殺を成果として宣伝したためとしています。
本事件の後、危険を感じた数十万人とも言われるアラブ人住民がイスラエル領を脱出し、ヨルダンやエジプト領のキャンプに逃れ、パレスチナ難民となりました。ユダヤ側は直ちに事件を起こしたイルグンを非難する声明を出し、ダヴィド・ベン=グリオンはトランスヨルダンのアブドゥッラー1世国王に謝罪の書簡を送りました。ユダヤ機関とハガナーは「非常に不愉快な事件」といて避難しました。
しかし、イスラエル領となる地域から大量のアラブ人が脱出したことは、イスラエル建国の上で非常に好都合であったことは否定できず、イスラエル政府はパレスチナ難民の帰還を認めていません。デイル・ヤシーン村は現在イスラエル領になり、虐殺された犠牲者の土地や財産はユダヤ人のものとなっています。