フーシ派と米国の対立、その背景にあるイランの近現代を知る
イスラエルとハマスの戦争に、紅海でのフーシ派の襲撃が加わり、不安定化が増しています。
米国、英国はフーシ派への攻撃を検討しているようです。フーシ派の背後にはイランがおり、フーシ派への攻撃はイランを巻き込んだ中東での大戦争になる危険性をはらんでいます。
中東問題の複雑さは、イスラエル対アラブという構図以外に、イランと米国の対立もあるというところです。しかし、このイランと米国の対立の理解のためには、イランの近現代史を振り返ってみる必要があります。
【カージャール朝(1779年~1925年】
カスピ沿岸に興ったトルコ系カージャール族の族長アーガ・ムハンマドは1779年にカージャール朝を創始しました。イスファハーンを攻略し、1786年にテヘランを首都としました。カージャール朝は1794年にザンド朝を、1796年にアフシャール朝を滅ぼし、イランはトルコ系の王朝によって統一されました。
カージャール朝の時代にはロシア、イギリスなど西欧諸国の侵出が始まり、特に南下政策を強めたロシアとの2度に渡るイラン-ロシア戦争が勃発しました。ロシアは南下政策の一環としてイラン侵出をもくろみ、カージャール朝イランとの間で1804年に第1次イラン-ロシア戦争をしかけて勝利し、1813年にはごレスターン条約でグルジア・アゼルバイジャンなどのカフカス地方を奪いました。
その奪回を目指すカージャール朝との間で1826年~28年に第2次イラン-ロシア戦争が起こり、再び勝利したロシアは1828年にトルコマンチャーイ条約をイランに認めさせました。
このトルコマンチャーイ条約によってイランはアルメニア地方のエレバンなど大部分(東アルメニア)を失い、アラクス川を両国の堺とすることを認めさせました。この条約はイラン在住のロシア人についての民事、刑事一切の裁判権をロシアに任せ治外法権(領事裁判権)を認めるという不平等条約でした。そして、イランは同様の不平等条約を英国とフランスに対しても認めることになりました。
また、「イランの官憲はロシア政府の同意を得ずにロシア臣民の家屋・店舗・倉庫に立ち入ることはできない」と規定されており、それは英仏に対しても認められたので、これらの外国人商人の活動は保護されることになりました。これらの不平等条約は1927年に撤廃されるまでイランの官民を苦しめることになりました。
さらに、インドを支配する英国もイランを支配下に置こうとして干渉を強め、1840年に英国ーイラン通商条約を締結しました。
カージャール朝の内部では1848年7月にはシーア派の分派バーブ教徒の反乱など不安定化が続く中、19世紀末に英国の経済支配に反発するタバコ・ボイコット運動などの民族運動が起こりました。
1890年、カージャール朝の国王ナーセロッディーン・シャーは英国人投機家タルボットに期限50年のイランのタバコに関する全ての権利を与えました。その独占供与の見返りで純益の4分の1をシャーが受け取ることになっていました。このことがイスタンブールで発行されていたペルシャ語新聞で暴露され、イラン国内に激しい反対運動が起こりました。当時イスタンブールにいたアフガーニーが指導し、国内のシーア派の法学者であるウラマー、そしてタバコ商人が先頭に立ち、タバコをボイコットする運動に発展しました。この運動はカージャール朝に大きな打撃を与えることになりました。
1892年、国王は事態を鎮静化するため英国への利権供与を取り消しましたが、多額の違約金を払ったため、その負担は財政を強く圧迫しました。
イランのカージャール朝は1905年3月から民衆が憲法の制定と議会開設を求めて蜂起すると、その要求に応じて議会の開設を認め、1906年には国会が開設され、同年12月にはイラン憲法が制定されました。これをイラン立憲革命といいます。
その直接の契機となったのは、1904年から5年の日露戦争での日本の勝利と、1905年に勃発したロシア革命(第1次)でした。戦争と革命によってロシアからの砂糖などの物資が止まり、民衆生活を圧迫、シーア派の法学者であるウラマーを先頭に政府批判を強め、日露戦争における日本の勝利は立憲主義をとる国の、専制主義の国に対する勝利として捉えられ、各地に憲法の制定、議会の開設を要求する声が強まりました。
運動の高揚に押されたカージャール朝のシャー(国王)は保守派の大臣を罷免、議会を解説し、イラン憲法を制定しました。この憲法はベルギー憲法をモデルにしたもので、次のパフレヴィー朝でも機能し、1979年にイラン革命が起きるまで存続しました。
一方、英国とロシアは1907年に英露協商を結び、イラン北部をロシア、東南部を英国の勢力圏とし、中間を中立地帯とすることで合意するという、帝国主義的分割協定を行い、それぞれイランに様々な干渉を行いました。イラン立憲革命は立憲主義と同時に、国民国家の樹立を目指しましたが、英国とロシアによって国土の多くを分割支配されたことで、1911年に改革そのものが挫折しました。このようにカージャール朝のイランはヨーロッパ列強の力を背景にした進出によって翻弄される事態が続きました。
【パフレヴィー朝イラン】
18世紀末からイランを支配したトルコ系のカージャール朝はロシアと英国の帝国主義国の侵略を受け、1907年に両国は英露協商で勢力圏を分割しました。1908年にイラン南部のフーゼスタン州で最初の油田が発見され、翌年には英国系のアングロ・イラニアン石油会社が設立され、その利権を所有しました。イランは石油の産出地として注目されるようになり、さらに1913年、英国海軍が艦船の燃料を石炭から石油に変えたため、英国はイランへの支配を強めました。
第一次世界大戦が始まるとオスマン帝国軍が侵入、ドイツ軍も諜報活動を展開し、英国も中立地帯に出兵しました。これらの情勢にカージャール朝政府は対応できず、無政府状態続く中、1921年にレザー・ハーンがクーデターを起こして実権を握り、1925年には自らシャーを称し、パフレヴィー朝を創始しました。これはイギリスの意向があったといわれています。
パフレヴィー朝は、1935年3月には正式な国号をイランとしました。これはゾロアスター教の聖典アヴェスターからとった言葉でした。
イランは石油の産出国であったため、列強の関心を強めていました。第二次世界大戦中、パフレヴィー朝イランは首都テヘランを中立地帯として、北方の5州をソ連が、南方の諸州を英国が管理するという南北分割下に置かれました。
しかし、独ソ戦の開始によって英国とソ連は提携することとなり、連合国はイランを通ってソ連に援助物資を送って、その対独戦争を支援していました。1943年、米国のF・ルーズベルト、英国のチャーチル、ソ連のスターリンの三巨頭が初めて顔を合わせたテヘラン会議がイランで開催されたのは、そのような事情が背景にありました。
第二次世界大戦が終わると、英国軍は撤退しましたが、スターリンのソ連は撤退せずに居座って北部イランでの共同の石油開発事業をイランに強要しました。それに対してモサデグを中心として民族主義運動が高揚し、石油国有化を求める声が強まり、ソ連も撤退しました。その後は英国の国際石油資本であるアングロ・イラニアン石油会社(AIOC)がイランの油田の利権を独占しました。
モサデグは1951年5月、パフレヴィー朝イランの首相として、石油国有化を断行した政治家です。大地主の家に生まれ、パフレヴィー朝の前のカージャール朝に仕えていた貴族の出身でもあります。イラン国民会議を指導し、英国とソ連の圧力に抵抗、石油資源はイラン自身の力で開発しようという決議を成立させました。高揚する民族主義運動に押されて首相となったモサデグはイランの石油資源を支配しているアングロ・イラニアン石油会社(AIOC)の資産の接収を通告、戒厳令を敷いてその操業を停止させました。
モサデグ政権はイスラム法学者(ウラマー)から共産主義者までを含む民族統一戦線を基盤として国民的な合意を作り、英国の国際資本に立ち向かって一定の成功を収めましたが、内部分裂の危険性を常にはらんでいました。次第にモサデグは独裁者として非難されるようになり、1953年8月19日、軍部のイラン・クーデターによって逮捕され、失権しました。その背後には米国の諜報機関CIAの暗躍がありました。
その後はパフレヴィー2世が復権し、石油資源も国際資本の合弁会社で管理されることになりました。
パフレヴィー朝シャーによる独裁政治を復活させたパフレヴィー2世は極端な親英米政策をとり、1961年から白色革命という急激な近代化政策を進めました。
国際石油資本による石油資源の支配、社会改革の遅れなどからイランの経済的困難は強まり、また専制政治のもとで腐敗が進行する中、米国の要請もあり国内改革を迫られたパフレヴィー2世は、土地改革(農耕地の分配、森林国有化)、女性参政権、労働者への利益分配、国有工場払下げなどの6項目からなる「白色革命」プログラムを国民投票にかけ、1963年に90%の賛成(政府の不介入による)で実行に移しました。
一方、議会は停止され、国王の独裁的な権限はさらに強化されました。この強制的な改革に反対する学生運動やシーア派法学者の運動が起こり、各地で民衆の蜂起がありましたが、厳しく弾圧され、その指導者ホメイニは逮捕され、国外追放となりました。
白色革命は英語では文字通り「White Revolution」といいます。ここでいう「白色」とは「国王が命じた」という意味です。フランスで「白」がブルボン朝の国王を象徴する色であったので、白色は国王や皇帝を意味するようになりました。その国王や皇帝を倒す革命の象徴として赤色が用いられたので、白色は反革命を意味するようになりました。革命側が国王や貴族に対して行うのが「赤色テロ」であれば、権力側が革命家を暗殺する行為は「白色テロ」といわれました。イランの白色革命も国王が行った大改革のため、そのようにいわれています。
しかし、この革命は国民生活を犠牲にして、国際石油資本に屈服することを意味していたので、国民の信望を失っていきました。
【イラン革命/イラン・イスラム共和国】
1979年2月、イスラム教シーア派の指導者ホメイニの指導するイラン革命が起こり、パフレヴィー朝は倒れ、イラン・イスラム共和国が成立しました。
イラン・イスラム共和国は大統領(初代はバニサドル)を公選とする共和制国家ですが、革命指導者ホメイニの「ヴェラーヤテ・ファギーフ(イスラム法学者による統治)」の思想によって主権は神(アッラー)にあるとされ、実際の国家の最高意志決定は、イスラム教シーア派の十二イマーム派の聖職者から公選される専門会議で選出される最高指導者があたる政教一致の国家体制をとっています。
十二イマーム派とはイスラム教の多数派であるスンニ派に対して、少数派とされているシーア派の中の主流派の位置を占める宗派です。
十二イマーム派は第四代カリフ(ムハンマドの後継者の意味でイスラム教団の最高指導者)とその子孫だけをムハンマドの後継者、ウンマ(信者の共同体)の指導者(イマーム)として認めます。アリーはムハンマドの従兄弟であり、またその娘ファーティマの夫であったことから、その子孫にのみムハンマドの血統が受け継がれているとし、その他のカリフの指導性を認めていません。十二イマーム派では、イマームはムハンマドのようにアッラーの言葉を理解できる特別の関係を持ち、信者の精神的指導者となるとされ、彼らは誤りや罪を犯すことがなく、ムハンマドの通じて神からの特別の知識を与えられていると信じられていました。したがって、その継承にはムハンマドの血統を引くことと先任者から指名されることが条件とされました。
1970年代に世俗化を進めようとしたパフレヴィー朝に反発した十二イマーム派ウラマーのホメイニによって1979年にイラン革命が起こされ、イラン・イスラム共和国が成立、シーア派十二イマーム派はさらに強固なイラン国家の国教としての立場を固めました。現行のイラン・イスラム共和国憲法では、イランにおける宗教法学者たちは第12代イマームの代理として政治的権威を持つ、とされています。
1970年代当時、サウジアラビアに次ぐ世界2位の産油国でしたが、1979年1月に国王が亡命すると、その保護のもとにあったメジャーズ(国際石油資本)は資源を残したまま撤退し、革命政権は石油国有化を実現させました。革命政権は資源保護を目的に原油輸出を停止し、OPECも同調して増産に慎重な姿勢を取ったため、世界的な原油不足となり、1973年の第四次中東戦争の時の第一次石油危機に次ぐ、第二次石油危機が起こりました。
革命直後の1979年、イランが亡命したパフレヴィー前国王の身柄引き渡しを要求したのに対して米国が拒否したため、イランの革命勢力はテヘランの米国大使館を襲撃し大使以下を人質に立てこもるという米国大使館人質事件が起こりました。
1979年11月4日から大使以下館員52名が人質となり、米国政府は報復をほのめかしながら交渉にあたりましたが、難航し続けました。
1980年4月24日救出のため「鷹の爪」作戦が決行されました。深夜に8機のヘリコプターがアラビア海に停泊中の米国艦船から飛び立ちました。時を同じくして6機の輸送機がエジプトから離陸。乗組員たちはイランの砂漠で落ち合い、また別の場所に移動してから、陸路テヘランへ向かうことになっていました。イランの革命勢力によってテヘランの米国大使館で5カ月にわたって人質に取られていた53名の米国人を救出する作戦が展開されたのです。
しかし、「鷹の爪」と名付けられたこの作戦は、無残な失敗に終わりました。三機のヘリコプターが砂塵のためにイランに到達できず、もう一機も故障に見舞われました。作戦の中止が決定された後、混乱のかでヘリコプターと輸送機が衝突し、8名が死亡しました。衝撃を受けたカーター大統領が、国民に秘密作戦の失敗を告げたのは、それから数時間後のことでした。「この任務を開始した責任は大統領としての私にある。この任務を中止した責任も大統領としての私にある」と発表しました。米国の威信がこの事件で大きく傷つくこととなりました。ホメイニは米国軍の失敗を導いたのは神の思し召しであると宣言したのです。
この事件は、米国人の「イラン憎し」を決定的にしたともいえます。
ホメイニによるイスラム信仰(シーア派)にもとづく厳しい統制が行われる国家の出現は、西欧諸国に大きな衝撃を与えました。しかし、この国家は隣国イラクのサダム・フセインが革命に乗じて石油資源を狙って侵攻してきたため、1980年9月から88年に渡る長期間のイラン・イラク戦争に突入することになり、苦難が続くことになります。イランとの関係が悪化していた米国は革命の波及を恐れて、この時イラクを支援しました。
1989年にホメイニが死去してからは最高指導者はハメネイとなりました。大統領は1997年の選挙で解放路線を掲げたハタミが当選し、イラン革命当時のような日常生活での宗教的な締め付けはかなり緩くなったといわれますが、イスラム原理主義的な宗教理念を基本とした政治が行われています。
イラン・イスラム共和国は2000年代に入っても対米強硬路線を続け、2002年には米国のブッシュ大統領はイランがウラン濃縮施設を運営していることが判明したとして、核開発を行う「悪の枢軸」の一つとして名指しで非難しました。そのため、イランと米国の関係は極端に悪化しました。2005年の大統領選挙では対米強硬論者、反西洋文明を訴えたアフマディネジャドが、穏健派ラフサンジャニを破って当選、新大統領は米国に対する警戒感を強め、核開発を米国に対する平等な権利であると主張して推進しようとしています。ただし、イスラエルと異なり、核拡散防止条約(NPT)にとどまって国際原子力機関(IAEA)の査察を受け入れることも表明し、イラン核開発問題は解決に向かう機運を見せました。
その背景には2006年に始まった米国が主導する国連安保理決議にもとづく経済封鎖がイラン経済に打撃を与え、国民の中に対米強硬路線の転換、統制の緩和を支持する声が強まり、2013年8月に穏健派の新大統領ロウハニ師(聖職者)が当選しました。国家の最高指導者は依然として反米姿勢が強いといわれるハメネイ師であり、対米関係が改善に向かうには困難が予想されましたが、ロウハニ政権は積極的に交渉を行いました。
2015年7月14日、核保有国5ヵ国(米国、英国、フランス、ロシア、中国)とイランの核開発に関係深いドイツの6国およびEUと、イランとの間で、イランの核開発を制限することと見返りとしての経済制裁を解除する「包括的共同行動計画」を策定することで合意が成立しました。この「イラン核合意」成立は、NPT(核不拡散条約)を実効のあるものとした米国大統領オバマの平和志向外交の成果として評価されました。
核合意に基づいてイランは核兵器に利用される高濃縮ウラン貯蔵量を10万トンから300キロに削減すること、高濃度ウランとプルトニウムの生産は15年間は行わないことなどの核能力削減の実施を約束、2016年1月にIAEA(国際原子力機関)がイランの核施設削減を確認したことを受け、米国やEUは金融制裁、イラン原油取引制限などの経済制裁を解除しました。しかし、イランと厳しく対立するイスラエルはこの合意ではイランは制限されながら核開発を続けることが出来るし、弾道ミサイルの開発制限が盛り込まれていない、として反発しました。
2017年1月、米国大統領にイスラエルと関係の深いトランプが就任したことから事態は一変します。トランプ政権は2018年5月8日にイラン核合意からの離脱を宣言、経済制裁の再開に踏み切りました。同じ5月14日、米国大使館をエルサレムに移転しています。イラン側も態度を硬化させ、2019年5月に核合意の一部履行停止を宣言し、核開発の事実上の拡大を表明しました。
イラン情勢は急速に緊迫し、トランプ政権が中東に空母を派遣、B52戦略爆撃機を投入してイランに軍事的圧力をかけると、6月20日、イラン革命防衛隊は米国軍の無人機を撃墜したと発表、トランプ政権もただちに報復攻撃を承認して一触即発という危機になりましたが、このときはトランプ大統領が承認を撤回して衝突は回避されました。
その前の5月~6月にかけて、ペルシア湾入口のホルムズ海峡で、6隻のタンカー(うち1隻は日本の海運会社が運航していた)が何者かに襲撃され損傷する事件が起き、日本でも第3次の石油危機になるのではないかという危惧が持たれました。しかしこの襲撃についてはイラン軍は関与を否定しています。
日本政府は、イラン原油への依存度が高いことからホルムズ海峡の安全確保を最優先にしながら、イランとの長い友好関係もあり、一方でトランプ政権への協力の姿勢も見せなければならないという困難な立場に置かれました。安倍首相は2019年6月12日にイランを訪問、イランのロウハニ大統領も12月20日に来日するなど活発な工作が行われ、両者の対立を回避が目指されたが、一方で12月27日、安倍内閣は自衛隊を中東に派遣することを閣議決定しました。
イラク戦争後もイラクに駐留を続けている米国軍(および英国などの連合軍)は、2011年ごろからシリア・イラク国境地帯で出現したイスラーム過激集団イスラム国に対する鎮圧を行い、2017年ごろまでにほぼ制圧しました。しかし、イラク国内にはシーア派も多く、その中の親イラン組織がイランと結んで米国軍をしばしば攻撃することが続きました。それに対してトランプ大統領は2020年1月3日、イラン革命防衛軍のソレイマニ司令官をドローン攻撃で殺害しました。米国の発表によるとソレイマニはそれまでの対米国軍ミサイル攻撃の中心にいた司令官であるとしています。イラン国民の人気の高い軍人であったことから、イランの反米感情はさらに高まりました。
2021年、米国に成立した民主党バイデン政権は、トランプ共和党政権で悪化したイランとの関係修復に乗りだし、2021年4月からイラン合意復活のための米国=イランの間接協議(EU、英仏などが仲介)が始まりました。しかし、米国の対イラン制裁事項は1500件に及んでおり、その一斉解除を要求するイランとの合意は困難ともされており、交渉は進捗していないのが現状です。一方で制裁によって通貨が高騰、物価騰貴などの経済低迷が続くイランにとっても合意による制裁解除は不可欠の状況になっていました。その後、イランでは対米穏健派に代わって強硬派のライシ政権が成立、さらに国際原子力機関(IAEA)の各関連施設への立ち入りを拒否しており、間接協議は進んでいません。
2023年になり、中国の仲介でイランとサウジアラビアが国交正常化を果たしました。これにより、中東情勢には劇的な変化が訪れました。イランとサウジアラビアの国交正常化により、追い込まれたのはイスラエルです。さらに、イランはロシアとの関係も深めており、2024年1月1日からはBRICSにも加盟を果たしました。
2023年10月7日、パレスチナのハマスがイスラエルを攻撃し、戦争が勃発。ハマスの背後にはイランがいるとされ、米国でもイラン攻撃論が起きています。
現在のイスラエルとハマスの戦争の背景には、西側世界とイラン、米国とイランの対立もあります。イスラエルを支援する米国はイランから敵視されており、イランが支援するフーシ派は、同じアラブ人を虐殺するイスラエルを敵視し、それを支援する米国を敵視します。
イスラエル−ハマス戦争の新たな緊張である紅海での対立はイランと米国の近現代の歴史も知っておく必要があります。
日本人がこうした背景を知ることには非常に意味があります。日本人が知ることで、中東で起きていることを知った上で、平和への道を考えることが日本人の役割ではないではないでしょうか。
まずは知ることから。