コンビニに行くのが楽しかったあの頃
「コンビニに行くのが楽しかった頃」
こう言われたら、いつ頃を思い浮かべるだろう。
私は、2020年6月頃。新型コロナウイルス感染症が落ち着いて、イベントなどが再開するだろうと言われていた時期だ。
実際に、6月になっても、感染症は収束しなかった。
大学もオンライン授業。インターンもオンライン。大学の課題もレポートばかり。
外に行く機会が奪われてしまい、気持ちが塞ぎ込んでいた時、唯一の楽しみが買い出しであった。特に、コンビニに行くことにわくわくした。
なぜだろう。ちょっと高くて、贅沢をしている気持ちだったのだろうか。新商品がどんどん出る店内を歩いて、それらを発見するのが楽しかったのだろうか。
多くの人が、コンビニに行くことにわくわくしたのは、高校生の時ではないだろうか。学校と家の往復の生活の中で、コンビニでお菓子を買ったり、肉まんを買ったり、お弁当を買ったり、ちょっとした非日常感というか、そういう感じだろうか。
一方、私が高校生の時は、コンビニに寄り道するなんて怖くてできなかった。
誰かに目撃されたら一生の終わり。高校の中でも「お前だけは裏切るなよ。」そんな圧を感じていた。
まあ、そんな私も一度試したことはあるが、入店のタイミングを誰かが見ているのではないか、店内にうちの制服を知っている人がいたらどうしよう、お店から出るタイミングも見られるんじゃないか、そんなことでハラハラした。無論、全くわくわくしなかった。
周りに聞くと、やはり高校生の時にコンビニに行くことはわくわくしたと言う。そんなことを聞いていると、「私の高校、制服なかった」という子がいた。別の子が「私もなんちゃって制服だった」と言った。
衝撃だった。
私が高校生の時に見ていた、生きていた世界はなんて狭かったんだ、と。
確かに、私の通っていた高校も、周りの高校もみんな制服があった。私服で高校に通うなんて、考えることができなかった。コンビニに行くことだって、同じ高校に通う子はざらにしていた。私はただ、勇気がなかっただけ。
自ら、自分が生きる世界を閉ざしてしまっていたんだ。
そう気づいた。
狭い世界に生きていたからこそ、大学生になった時に世界が広いことに気づけたのかもしれない。また、社会人になれば、より広い世界を見られるだろう。
一方、学校と家の往復だけ、今やオンライン授業も増え、その往復の機会も奪われてしまっている学生たち。
広い世界を知らずに悩んでしまうのも理解できる。誰にも相談できず、塞ぎ込んでしまう気持ち。コロナ禍からいつ解放されるのかわからず、将来が見えず。自分の青春が空白のまま、時間は待ってくれない。世界は残酷だ。
小中高生が過去最多で自殺してしまっている。未来に生きる者たちが。
世界はもっと広いんだよ、そう伝えれば、
少しでも私たちに話して楽になってもらえるならば、
私たちの介在価値があるのではないか。
というか、むしろ手を差し伸べることは義務ではないだろうか。