2歳娘の「食べない」理由
娘は「食べること」が大好きだ。
好物は果物、ジュース、肉、パン。
食後のデザートを「おいしいの」と呼びならわし、毎食の楽しみにしている女。保育園ではいの一番に果物から食べてしまう女。好きなものから食べるタイプ。
保育園でみんなで食べる昼ごはんは、毎日きれいに完食するとよく褒められる。
しかし、毎日家での夕ご飯はゴネにごねる。なお、ゴネるのは朝も同じだが、話の流れ上今回は割愛する。
夕ご飯は1食につき30分はゆうにかかり、ひどいときは1時間以上も粘る。納豆もびっくりの粘り度合いである。どれほど糸を引けば気が済むのか。
私が台所に立つと「ママなにつくってるのぉ〜?(今日のごはんなに?)」と聞きにくる、食べる前は「○○ちゃんモリモリ食べるぅ!」とニコニコで言う、真っ先に席につく、そして最初の勢いだけはめちゃくちゃあるのだが、すぐに椅子からぐにゃぐにゃ抜け出したりまわりにあるもので遊びだしたりして(我が家では「休憩」と呼ぶ。用法:「あ、休憩始まったな」)、ものの10分ほどで隣にいるママの膝におさまる。
そして、食べないのである。
完全にやる気をなくしている。
最初の10分の勢いはどこにいった。スタートダッシュが過ぎる。
「食べないなら終わりにしよう」と声をかければ「まだ食べるぅ!!」と必ず言う。
食べきらないと「おいしいの」がこないと娘もわかっているので、簡単に終わりにはしない。
しかし箸を持てば遊ぶため、仕方なく私が一口ひとくち口へ運んでやる。運んでやれば、レーンの流れ作業のごとくスッと飲み込む。時もある。
もうすぐ3歳なので、生後6ヶ月で離乳食が始まってから2年以上、これをやっている。
抱っこで食べさせるなんて、もっと早く卒業するもんだと思ってたぞ?
大人の椅子で高さが合わない+私の膝の上なので安定しない+ママが後ろから覗き込むのでいまいち口元が見えないのトリプルパンチで、こぼすのなんかしょっちゅうだ。
ひどいときは私が自分のご飯を食べられずかかりきりにもなる。
が、まぁ、それはまだいい。
膝に来ようが、どんな言葉かけをしようが、とにかく食べない時もめちゃくちゃあるのだ。それがつらい。
しかし頑なにご飯を終了しようとはしないため、苦の時間が永遠に感じられるほど長く続く。
最終的に私がブチ切れて娘が泣いて終〜了〜!なんて日常茶飯事だ。
「娘がスムーズにご飯を食べてくれない」ことは私にとって、娘のイヤイヤ期で辛かったことランキングベスト3に入る。まだイヤイヤ期終わってないけどな。
ところで私は秋田県民なのだが、よく知られる「きりたんぽ鍋」の派生料理として、地元でのみ作られる「だまっこ鍋」という料理がある。
こういうやつだ。
きりたんぽは米をつぶして棒に巻きつけて焼いたものなのだが、一般家庭で作るのはハードルが高い。面倒くさいので、みんなスーパーで買う。きりたんぽを鶏肉だしのスープできのこ、ねぎ、せりなどと煮込んだものが、きりたんぽ鍋だ。
昔は「マイ・きりたん棒」が各家庭にあって、家でもきりたんぽを普通に作っていた……かどうかは知らないが、少なくとも死んだ祖母はそうで、よくホットプレートにずらりときりたんぽを並べて焼いていたものだ。
一方、だまっこは米をつぶして丸めるだけ。
そしてだまっこ鍋は、米以外の具材やスープはすべてきりたんぽ鍋と同じ。
要するに、家庭で手軽にきりたんぽ鍋の味を楽しむために、いにしえの人々がだまっこという手法を考えつき、こんにちまで引き継がれてきたのだろう。知らんけど。
前置きが長くなったが、そんなだまっこを今日、作った。ちなみにだまっこにしたのは、きりたんぽを買うお金を惜しんだだけである。
鶏ガラで出汁をとってスープをつくり、あきたこまちを柔らかめに炊いて、アツアツのうちに半殺しにする。完殺しでも生殺しでもない、半殺しだ。
物騒なネーミングだが、米の粒が半分ぐらいなくなる、おはぎ以上おもち未満ぐらいで止める潰し方である。
あきたこまちはもともとモチモチとしたお米なので、きりたんぽには適して……いかん、余談を語りすぎているので、本線に戻ろう。ハンドルを切ろう。
半殺しにした米をひと口大にちぎり、塩水をつけた手でコロコロと丸めていく。見た目はまさに粒感の残るお団子といった風体である。それをグリルで焼き目がつく程度に焼く。あとは食べる直前にスープに入れれば「だまっこ鍋」の完成だ。
だまっこの錬成作業は激熱すぎて娘が手伝うのは無理だったが、お団子として遊んだり、楽しそうに眺めたりはしていた。
食べることが大好きなだけあって、私が台所に立つと娘は楽しそうに見学に来る。興味津々なので、たとえばスイカを丸から切り分ける工程を見せたり、餃子を作るときは一緒に包んでもらったりと、なるべく参加してもらうようにしている。
かっこよく言うと食育ってやつだ。じつのところは、「自分が参加した料理なら興味もわいておいしく感じられるはず」という私の下心が9割を占めているのだが。
……だが、予想通りというか、娘は食べなかった。
いや、正確には食べた。「ママ頑張って作ったんだよ〜今日見てたでしょ〜?一口だけでも食べてみてよ〜」という私の猫なで声に、しかたないなぁ、と言わんばかりの真顔で、一口。
そして「……おいしぃ!!」と破顔した。「でしょ〜!!」と喜ぶ単純な母(私)。
なんなら「うん!さいこぅ!」と親指をグッと突き出してもきた。どこでそんなの覚えた。
しかしその後観察していると、肉を食べ、肉を食べ、肉を食べ、スープをすすり、きのこやらの具材を食べ、だまっこだけキレイに残しやがった。
「ママは、○○ちゃんがごはん食べないと、悲しくなっちゃうからぁ」娘が唐突に言う。
うんそうね。確かにその話したね。イライラして怒っても子どもには通じないので、自分がどう思ったかという感情を伝えるようにしましょうって、「子ども イライラ 対策」でググったら書いてあったからさ。そう言うなら食べてくれよ。
そして「休憩」に入った。ぐにゃぐにゃグズりタイムである。
「あといぃ〜」「ねむぃ〜」「抱っこぉ〜」
「じゃあ終わろうか」
「まだ食べるぅ〜」
「……(無言でスプーンを口の前に差し出す)」
「……(口を真一文字に結び顔を背ける)」
出た。いつものやつだ。君がバーに通う常連客だったら、バーテンダーが無言でお決まりの一杯を差し出す頃合いだ。決まりきったルーティーン。
しかし、私も腐っても母である。娘のパターンを日々、不本意ながらも研究し、対策を講じている。
保育園に行くのを渋るとき、お風呂に入るのを嫌がるとき、歯磨きを拒否するとき、「どうしても必要だが娘が乗り気にならない」ときにできるのは、待つことである。
普通じゃねーか!と読者は声を揃えてツッコんでくれたと思うが、マジなのである。
娘を抱っこした母はいったん、無になる。何も考えない。焦りもイライラも感じない。何も聞こえない。
ひたすらに、待つのだ。娘の気が変わるその瞬間を。信じて待ち続ければ、それは必ず訪れる。信じる者は救われる。
「……(無言でスプーンを口の前に差し出す)」パクッ。もぐもぐ。
「……(無言でスプーンを口の前に差し出す)」パクッ。もぐもぐ。
勝ちである。神はいた。
30分以上をかけてなんやかや完食し、娘は無事「おいしいの」にありついた。
もうすぐ3歳、だいぶ会話も成り立つようになってきたので、ふと思い立って寝る前、布団の中で娘に聞いてみた。
「今日、なんでだまっこ食べなかったの?」
「あのね〜、○○ちゃんね〜、ねむかったの」
眠かった???
予想の斜め45度上の答えが返ってきたので驚いた。
なぜなら、私は「娘の好みの味(食べ物)じゃないから、食べない」ものだとばかり思っていたからである。
だまっこに限った話ではない。毎日毎日夕ご飯のたび、娘がグズったり、せっかく作ったものをほぼ残して終〜了〜したりするたびに、私は落ち込んでいた。
だって、冷食のハンバーグをチンして出すとムッシャムッシャ食べるし、なにがなんでもおいしいものにはありつこうとするのだ。食べないときは本当に食べず、「おかずは食べん!しかしおいしいのは食べる!」という鉄壁の姿勢を崩さない。
野菜や魚や固いものや、今まで食べたことがないものが出てくると、急にやれここが痛いだの、夕焼けがきれいだの、保育園で何をして遊んだだの、関係ないことばっかり言い出す。
「食べたい」と言われて出したのに、全然食べない。
働いたお金で買ったものを、いともあっさり残される。
おやつやおいしいのばかり欲しがって、ママが作ったご飯には手をつけない。
それが本当に本当につらくて、つらい。
それまでお互い楽しく機嫌よくやってたのに、娘の「食べない」現象を機に私がイライラし、娘が泣き、さっきまでのように楽しく遊べなくなってしまう繰り返しがつらい。毎日、毎日だ。
でも食べない理由が眠かったからってマジ???????
いや、考えてみれば納得はいく。
これがよその子の話だったら、オブラートに包んだ苦薬ぐらいスッと飲み込める話だ。
子どもが眠くなると機嫌が悪くなるのは、子育てをするママにとっては日本一の山が富士山であるぐらい当たり前で、よくあること。
「そっか〜眠かったのか、じゃ仕方ないよね」って全然言える。他人ごとなら。
なのにそこに考えが至らなかったのは、私の「食べてもらいたい」気持ちが強すぎたからだ。
自分の辛さにばかり目がいって、娘の気持ちを考えてやれていなかった。
私が無になっている間に、娘はちょっとお腹が満たされたことで誘発された眠気と闘い、打ち勝って、ふたたび食べる気に戻っていただけなのだ。
むしろ、褒めてやるところじゃないか。よく眠気に勝って、続きを食べたね!えらいぞ!
いやマジな話、娘にとって不本意なこと(食べたくない理由があるのに、食べろと言われるなど)があったとき、娘は自分の中でそれを噛み砕き、消化し、折り合いをつけてるってことじゃないか。
むしろ大人すぎるし、そうさせてたことが申し訳ない。
子どもの食べない理由は、そのときによっていろいろあって、なんなら複雑に絡み合っている。
だから、子どもがとった行動ではなく「なぜそうしたか」に目を向けなければならない。お互いがつらくならないために。
「おいしいの」目当てで嫌々食べているのだろうと、卑屈になったときもある。
それもないとはいえないが、今日「おいしぃ!」と言ってくれた笑顔も、「さいこぅ!」と突き立ててくれた親指も、娘の本心だったに違いない。
だって、「自分が食べないとママは悲しくなる」と、娘は知っているのだから。
ママを悲しくさせるために食べない、わけではないのだ。
小さな身体と脳みそにいっちょまえに宿している「食べない理由」を、私はもっと見つめよう。
無になっている場合ではない。やるべきことが真逆だった。
そしてその理由に寄り添って、毎回答えを絞り出すしかない。
子育てに正解はないけれど、娘にとっての正解を、私は探し続けようと思った出来事だった。