ありのままが見えているわけではない
誰もが、自分の目の前に広がる光景が「現実」だと信じています。
そしてそれは、隣にいる誰かにも
同じようにその現実は見えていると思っています。
残念ながらそれは「ちがう」といったら?
私たち人間が五感からとらえて、自分が知覚しているものは
あくまでもその現実の一側面でしかないということに
気がついている人は少ないのではないでしょうか。
自己紹介の記事にも書きましたが
私自身が特殊な感覚の持ち主で
(特殊というのはあくまでその時に周りにいた人たちと比べて
「相対的に」という意味です)
「普通は」とか言われるとざわざわしたり
自分のしていることを否定されたり
他者の批判をしている人たちに向かって
「どうしてそれがいけないことなのか」と問い、ドン引きされるという
経験を多々してきました。
大人になるにつれて、「きっと私がおかしいのだ」認識して
「どうして」と問うことはなくなりました。
そしてどんどん嘘偽りの鎧を身に付けていった…という生き方をしてまして。
「私にはこうみえているのに(感じているのに)みんなはちがうんだ」
ということが不思議でならなかったし
当時の私には、そういった自分の感覚を信じることもできず
「多数派である視点」にどれだけ近づけるかと、かなり無理をしていたんだなぁと
その当時の写真でみる表情や、体調の悪さからうかがい知れます。笑
そし
てそんな自分が不思議で、探求を重ねた結果
・媒体が違えば、みえるもの(知覚できるもの)もまったくちがう
・同じ媒体であっても「状態」によってみえ方・感じ方がちがう
・みる角度によって、同じものでもちがうものにみえる
ということを知って、今までの私の感覚はまちがいではなかったということを知ります。
あくまでも、視点がちがうだけ。
大多数の人がみる視点と、私がみる視点がずれていた
というだけのことです。
でも人は、自分のみている景色が「正しい」と思っています。
本当はそうではないということを知るべきだと思います。
もしかしたら、自分が当たり前に「赤」だと認識しているものが
隣にいる誰かには「青」にみえているかもしれないし
同じ赤だったとしても、微妙にちがう赤にみえていることもあります。
円柱だって、上からみたら丸だけど
真横からみたら四角というふうに、全くちがう形になります。
そのみたもの=情報として提供されたものは
その人の【観念】になります。
みなさんが「正しい」と判断したことは
みなさんそれぞれの【観念】に基づいたものでしかなく
それがそのまま他の誰かにも同じようにとらえられてはいないのです。
【観念】は過去の体験・過去のデータから勝手に作りあげられたものというだけで
真実ではないのに
その人にとっては真実のように存在してしまうところが厄介なのですよね。
そして人と人が争うのは「自分の観念(意見)が正しい」と思い込んでいるからです。
自分のみえているものが現実の全てではないことと
自分のみえているものが、他者にはまったくちがうものとしてみえていることを全ての人が知って
そのちがいを受け入れることができれば
視野が広がって、生きることがもっと楽に楽しくなるし
もっと心地の良い世の中になるのにな。と
少数派の感覚の持ち主としては切に願うところです。
そして、自分が信じていることが
単に過去の体験から作り上げたただの知識でしかないので
「これから」「未来」を創っていくにあたっては
ちょっとお邪魔な存在なのだということも知ってほしいです。
まずは、自分が信じて疑わなかったこと
世の中の当たり前を見直すことから。