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ワンダと巨像、好きすぎてnote始めた人
つい先日クリアして、あまりに刺さりすぎたのでなにか書き残したいと思い、noteを始めてみた。
クリア後、手帳に書き殴った主観と妄想を纏めたものなのでご注意を。日本語は苦手である。
セカイ系とリアリスト
私がどハマりする作品は、高確率である作品と似ていることがある。
今も色濃く、バイブルとして私の中に流れている「新世紀エヴァンゲリオン」だ。
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悪い癖だが何かにハマるたび、エヴァとの共通点を探してしまう。
例に漏れず今回も探してみると、あったのだ。
どう考えてもなさそうなエヴァとワンダに決定的な共通点が。
主人公とヒロインを中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと
上記はエヴァが元祖とされるセカイ系というジャンルの大まかな定義である。
あれ、ワンダと巨像って結構セカイ系?いや違う、がっつりセカイ系だ。
モノちゃんか、村社会という世界か、二つを天秤にかけたワンダはモノちゃんを選び、悪魔ドルミンを甦らせてしまう。もうまんまセカイ系だ。
しかし、主人公が願ったような結末にならないのがワンダと巨像であり、他のセカイ系と違う部分である。なぜなら、最終的にワンダは世界を相手取ったことにより呪われ、殺されてしまうのだから。
何故、ここまで悲劇にしたのだろう。
それは、上田さん(ワンダ作った人)のリアリストな部分がストーリーに大きく影響したからではないだろうか。
開発初期、物語の結末はモノを蘇らせたワンダが、モノと共にアグロに乗って地平線へ向かって走り去っていく、というハッピーエンド寄りのものだったのです。しかし、死者を生き返らせるという自然の摂理に反することを、フィクションとはいえプレイヤーに安易に提示しても良いものか、と考えていく中で変わっていきました。
"死者を蘇らせる"という行為を、上田さんはたとえフィクションの中でも肯定しなかった。
そういう現実の掟に重きを置いた姿勢が、ワンダに死者を蘇らせた代償を払わせたのだろう。しかし、はたまた一転、物語はそれだけでは終わらなかった。悲劇的な展開からうってかわり、ワンダが赤ちゃん返り(生まれ変わり?)するという微かな希望を匂わせるラストを迎えるのだ。
私はその、セカイ系という虚構の中に現実と希望が入り交ざったやさしくて、せつないエンディングが大好きだ。
ワンダとモノ
何も教えてくれないからこそ、分かっている事がより際立つ。ワンダについて何も知らないからこそ、ワンダを形づくる要素としてモノちゃんが大きく占める。そして、登場人物がほぼワンダ(とアグロ)のみであるからこそ、プレイヤーは自然とワンダに感情移入してしまう。そのワンダを形づくるモノちゃんにも。
私はこの二人の関係及びワンダの献身に尊さを見出してしまった。
二人のキャラ設定がほとんど明かされていないが故、ワンダにとってモノちゃんは生き返らせたいほど大切な人という確固たる事実がより輝くのだ。逆に背景のしがらみを知ってしまったら、プレイヤーはワンダに感情移入できないかもしれない。最後まで最低限の設定しか教えないというゲーム作りが二人の関係をより尊いものへと昇華させたのだろう。
しかし、全てを投げ捨て、成り立つ献身に尊さを見出していいのだろうか。
巨像を倒した時に感じる違和感と同じものが来たのも事実である。
死別より辛いもの
ワンダとモノの結末については、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の、すれ違いエンドのイメーシもありました。また、ビデオゲームでは当時あまりなかった「悲劇性」を出したかったということもあります。結果、モノは生き返り、ワンダは赤ん坊になってしまうのですが、これは記憶や時間による別れは「死別」よりも悲劇性が高いと考えたためです。
上田さんはインタビューで、エンディングについて上記の通り語っている。私としては、微かな希望を残したくて赤ちゃんエンドにしたものだと思っていたので、そういう意図が全くないのが驚きだった。
記憶や時間による別れは「死別」よりも悲劇。
妙にこの言葉が頭に残る。
上田さんの文脈的に成長してワンダの記憶が戻る!という可能性はないのだろう。モノちゃんがよく知っているワンダはあの時死んでしまって、新しく生まれたワンダが元のワンダに近づくごとに、彼の死が色濃く、モノちゃんに影を落とし続けてしまうのだろうか。
悲劇…人生の重大な不幸・悲惨を題材とし、死・破滅・敗北・苦悩などに終わる劇
悲劇とは"劇"なのだ。劇はもう鷹が飛び立ったあのシーンで終わった。つまり、鷹が飛び立った後の二人の未来は悲劇である必要がないのだ。
ツノの生えたワンダはたしかに悲劇を象徴するものなのかもしれない。しかし、閉ざされた世界で生きていくモノちゃんとアグロにとってあのワンダは、あたたかな陽の光を放つ希望であってほしいと願うばかりだ。
最後の一撃
「最後の一撃は、せつない。」
最後の最後まで巨像のことを言っているキャッチコピーだと思っていたが、これはワンダのことを言っているキャッチコピーでもあるとエンディングを見て思った。どういう事かと言うと、
ストーリー上、最後の一撃をくらったのはワンダなのだ。
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散々巨像を狩った"いにしえの剣"ではなく、普通の剣にあっさり体を貫かれてしまうワンダ。それでも、最後の最後まで視線の先にはモノちゃんがいた。巨像と同様、その最期はせつないものだったが、私が特にせつなく感じたのはここからだ。ドルミンの一部と化したワンダが光から逃れるため、プレイヤーは最後の操作を委ねられる。ここでプレイヤーが光に抵抗すると、ワンダの本当の願いが生まれるのだ。
それは「モノちゃんを生き返らせる」ことが目的だったのではなく「生き返ったモノちゃんに会いたい」が全てだったということだ。
せつねえ......。逆に言えば、ここでプレイヤーが抵抗せずに光に吸い込まれると、ワンダの本当の願いは見えてこない。
巨像が呻き声を上げる中、急所を刺し、巨体があっけなく崩れていく様を見る度、言いようのない違和感が私を襲った。苦しそうに藻掻くワンダを、無慈悲に殺すエモンの従者は、今までのワンダのメタファーなのであろう。
「最後の一撃をくらったのは、ワンダ。」
私がしんどくなる言葉です。
終わり
どう締めていいか分からないので、私がワンダと巨像で一番好きなものを言って終わろうと思う。
ワンダの顔、めちゃめちゃ好きです。
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