鎌倉ほのぼの散歩 二十七番「妙高院」/二十八番「建長寺」/二十九番「龍峰院」
前回の6日目「ハイキングコース」に行く前のことです。
空ちゃんが遠方から来た友達に鎌倉を案内することになり、「建長寺」と「明月院」は先に回るね、ということになりました。
それで「建長寺」と「明月院」は別口で行くことになったのですが、特に有名どころの観光地ということもあって、ひとりでいくのもつまらないな、と思いました。
そこでお誘いしたのが七海ちゃん(仮名)。
快く承知してくれました。
名高い仏閣である「建長寺」は敷地も広大で(国の史跡に指定されています)、奥の院は山の上にあり、見どころ満載の古刹です。
なにしろ五山第一位。
鎌倉時代から室町時代にかけ、権勢を誇った寺院です。
改めて「五山」ってなあに?
そもそもは中国にあった「五山制度」がもとになっているそうです。
さらにさかのぼると、古代インドの初期仏教の5つの精舎(祇園精舎などの伽藍や寺院のこと)と他の5つの重要布教ポイントを加えた「五山十刹」というのがあり、中国は南宋時代にそれを模して「五山制度」を作りました。
インドの五山十刹は「布教拠点」としての意味合いだったようですが、南宋の「五山制度」は皇帝が庇護したお寺5つを指していたようです。
鎌倉の五山は、臨済宗の格付けです。
臨済宗は鎌倉時代の新興宗教であり、京都あたりからは異端くらいに思われていたものを、鎌倉幕府が保護して発展したため、最初は寺格といっても「政府の庇護下にある寺」という意味のものだったようです。
それが室町時代になって「ランキング(寺格)」に変化して、一位、二位などの格式がついていったのだとか。
鎌倉幕府が当時新興宗教であった臨済宗を庇護したのには、対中貿易がらみの京都との対立が背景にあったとも言われています。
しかも、鎌倉幕府はいくさで勢力下に入った領地を御家人に分け与えていたのですが(御恩と奉公の御恩)、これを一部寺社領にもしたため、寺は土地の管理まで任されていたそうです。
単純なランキングではなく、多分に政治的な意味合いの濃いもののようです。
室町時代には、後醍醐天皇と足利義満の間で五山第一をどこにするかで見解の相違があったため、後醍醐天皇一位推しの京都「南禅寺」(時の天皇や上皇が発願して造った寺=勅願寺だったから)を「五山の上」と格付けして、その下に京都五山・鎌倉五山を分けたとのこと。
……。
ん?あれ?
仏教ってそもそも、仏陀が、カースト制度を重んじるバラモン教からの脱却を目指して興した宗教だったんじゃ…?
そこ、突っ込んじゃダメなとこか…
現代では「口コミ第1位」などの標榜をめぐって色々騒動もあるようですが…(ちょうど昨日、NHKのクロ現でやってました)。
人間はとにかく、格付けが大好きなのですねぇ。
確かに、何事においても「順番」というのは大事ですけれどね。
まさに「世知辛い」ものです。
(仏教用語で世知=世間知。世間を渡るには智慧が必要で、そこから「世知辛い」=「計算高い」「暮しにくい」などの意味に発展したみたいです)
まっ、それは置いておいて。
五山第一位の「建長寺」さんは、もちろんHPも立派です。
さて、七海ちゃんが快く承知してくれたとはいえ、結構歩くので気軽にというわけにはいきません。
鎌倉で最大級の境内の広さを誇り、御朱印をいただく場所が中に3箇所もあります(鎌倉二十四地蔵参りを入れると5箇所)。
そのすべてに、つきあってくれました。
七海ちゃん、改めてありがとう!
最初は入り口にある、「建長寺」の御朱印をいただきます。
ここは御朱印受付が入り口にあるため、お参りが後になります。
お参りをした後で、いちど御朱印帳をいただきに戻り、そのあとは、境内右手にある「妙高院」さんへ。
こちらは、普通のお寺、というか庫裏(=僧侶の住居など生活する場所)になっているようです。
檀家さんと御朱印をいただく以外の人の、一般参拝禁止です。
そして、実は入り口を見つけるのがちょっと大変です。
巨大な山門の近くにあるので、かえって見逃しやすいのかも知れません。
とても静かな佇まい…
住職さんはお忙しそうでしたが、快く御朱印を書いてくださいました。
その後、今度は本堂のわき道を抜けて、見落としそうな標識を頼りに「龍峰院」さんへ。
こちらも、一般参拝禁止です。
苔むした階段を上がっていき、閉じた門の隣のくぐり戸を抜けて中へ。
その後また少し階段を上がります。
表からお参りした後、やはり庫裏へ。
そのとき、なにやら軽快に階段を昇ってくる足音が。
クロネコ…⁈
クロネコヤマトさんでした。
まあ、そうか。住職さんだって、Amazonで何か頼んだりするよね。
そんな当たり前のことに感心しつつ、こちらでも快く御朱印をいただきました。
龍峰院を出て、今度は回春院さんへ。
この先は、もう御朱印をいただく場所がないのですが、せっかく建長寺に来たので、奥の院まで行きましょうということになりました。
回春院さんに向かう道のりは、友達とお話ししながらでもないとちょっと不安になるほどの静かな山道です。七海ちゃんととりとめのない会話をしながら歩いたので全然苦になりませんでしたが、意外と距離があります。
それから一度戻り、さらに奥の院の半僧坊を目指します。
半僧坊は天狗の社。
ここからはちょっとした山登りです(といっても主に階段)。
なんとか登り切り、お参りをしました。
ここからの景色も絶景です。
「富士見台」からは富士山を眺めることができるらしいのですが、残念ながらその日は見えませんでした。
ほかにもたくさんの塔頭寺院がある建長寺。
「建長寺」は、HPにもありますが、鎌倉幕府5代執権の、北条時頼が開基と伝えられます。
北条時頼は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で小栗旬さんが演じている北条義時の子供、北条泰時の孫です。つまり小栗旬さんの孫の子=ひ孫にあたります。
時頼は、鎌倉幕府、そして北条家の最盛期の執権で、三十七歳という若さで亡くなったものの、善政を敷いた名君として知られているそうです。
「建長寺」は、日本で最初に「禅寺」と称した中国宋朝風の臨済禅だけを修行する専門道場だ、と、HPに記載があります。
それまではひとつの寺で宗派を兼ねていることも多く(四宗兼学・八宗兼学)、建長寺のような1寺1宗というお寺が珍しかったとも。
まさに「禅宗」の修行道場だった「建長寺」。
境内全体を、質実剛健なイメージが覆っています。
建長寺の山門のすぐ手前には、サザンオールスターズの桑田さんの出身校でも知られる「鎌倉学園中学・高等学校」があります。
近代的でシックな校舎。
子供の受験期にこちらの学校説明会に何度か足を運んだことがあるのですが、こちらの学校では建長寺での座禅や、建長寺が発祥とされる「けんちん汁」を作る授業があったり、鎌倉を観光案内するプログラムがあったりして、とても魅力的でした。
いつも不思議に思って眺めるのは、鎌倉学園の校章。
安倍晴明で有名な五芒星なんですよね。
北鎌倉には、実は安倍晴明にまつわる逸話や史跡も多く残っているのですが、それにしても、校章がなぜまたこの五芒星なのかと、いつも思ってしまいます。
そして、北鎌倉を歩いていると、ほうぼうで「星のマーク」を目にすることがあります。とても不思議です。
歴史のロマンたっぷりな北鎌倉の安倍晴明在住説。
北鎌倉は剣客商売、ではなく健脚万歳なところです。
どこに行くにも結構歩きますし、山門を入ってからが登山、というようなお寺も多く、ぜひ、足腰の丈夫なうちに、いろいろな場所へ行って置かなければと思っています。
で…
この日は、七海ちゃんとの会話が楽しすぎて、そしてとにかく回るところが沢山あったため、全く写真を撮っていません。
トップ画像は、この時より遡ることさらに三年前に、家族で建長寺に行ったときの写真を使いました。
次回は七海ちゃんと「明月院」に参ります。
次こそ、写真いっぱいでお届けいたします!
次はこちら。