母の家計簿 実家の片づけ⑦
またぞろ感染症流行の兆しが見えてきて、今月の実家訪問は見送ることにしました。
慌てることは無いし、この夏の暑さの中で作業するのもよくなさそうです。片付けも夏休み、とすることにしました。
ところで先日、還暦子さんのこんな記事を読みました。
還暦子さんが、かつて書店でアルバイトをしたときのことが活き活きと描かれています。こちらの中で、
という描写があり、これを読んだとき、ハッと思い出しました。
我が家の母は、家計簿をつけていました。
いました、と言いますか、今もつけています。
片付けに伴い、古い家計簿が出てきたので、このことを記事にしよう、とずっと思っていたのでした。
還暦子さん、大事なことを思い出させていただきました。
きっかけをいただき、ありがとうございます!
以前、方言の記事を書いたときに、私はすごい田舎で幼少期を過ごした、と書いたことがあります。
父の仕事の関係で、とある村に住んでいたのです。
母が家計簿をつけ始めたのは、その村に住んでいた新婚の時。
結婚の届けを出しに行った村役場で、薄い冊子のような農協系の家計簿をもらったのがきっかけだったそう。
以来五十年、つけ続けています。
農協には「家の光」という雑誌があり、それにも付録として家計簿がつくのだそうです。
母がもらったのはそれとは違う冊子だったようですが、田植えや稲刈りの時期などが書かれていたと言います。費目、というのをそれで知った、と言っていました。
村には当然、本屋などなく、まさか「付録」に家計簿がついている雑誌があるなどとは、当時思いもしなかったそうです。冊子はすぐ無くなってしまって、父からノートをもらってメモ程度に書きつけていたのだとか。
父の仕事の任期が終わり、一時的に父の実家に入って舅姑と同居することとなった母。
妹も生まれ、「家計簿」どころではない時期に突入。
それでも何かにメモ程度につけていたようですので、なかなかマメです。
マメといえば、母は、
「新婚旅行から帰ってきたときにね、おばあちゃん(私の父方の祖母。母からすると姑)から、当座困るだろうと色々買ってもらったの。そのときのメモを取ってあるんだけど」
そう言って、タンスからメモを出してきました。
「色々買ってもらったの」と言う割には、金額が書いてあるんですが…
それにはどうも触れられたくない過去があるらしいので、深くは追及しませんでした。
数量が書いていないので、どのくらいの分量(数量)での金額かはわかりませんが、とにかく大事にとってあり、今回家計簿を捨てた時も捨てずにとって置いたようです。
「サランラップって、もうこのころにあったんだね」
改めて内容を見直した母が感心したように言ってました。
そこ?
「お茶、安いね。ものすごく安かったんだね」
「すり鉢とすりこぎで、250円と80円。今どうなのかねぇ」
私はハムが380円というところもツッコミたい。
母によると、当時はいわゆる「ボンレスハム」のような状態だったような気がする、ということでした。
それにしても、五十年ちょっと前の、宅急便などない時代。
当座困るだろうと、おそらくは「手渡し」されたものに、魚系がわんさか入っていて、それはそれで困っただろうと言ったところ、
「ああ、買ったの魚屋さんからだからね。まあなんとか食べたんでしょ」
というあっさりした答えが返ってきました。そして
「魚屋さんでサランラップ売ってたのかな」
と、母。
母はサランラップが気になるようでした。
ではすり鉢とすりこぎは…
今となってはもうわかりません。
そんな母が「主婦の友」と出会ったのは、父の実家を出て家を建てた頃。
年末年始の特集号を買うと、なんと家計簿がついてくる!
街の本屋さんで「こんないいものがあるんだ」と思った母は、その後毎年、年に一度、家計簿目当てに「主婦の友」を買いました。
私は母が、選んだうえでの「主婦の友派」なのかと思っていましたが、そうではなかったようです。
「そういえばもう一つ雑誌あったね。あれにも家計簿ついていたの?」
と言っていたので、「婦人俱楽部」のほうは目に入っていなかったと思われます。
「主婦の友」の家計簿の、何が魅力だったかと言うと、「メモ欄」という答えが返ってきました。
ちょこっと日々のことを書くのに幅や大きさなどがちょうどよかったのだそうです。
「主婦の友」の家計簿は三十年くらい続けて止め、ここ二十年は「高橋手帳」が出した家計簿をつけている母。
「主婦の友」の休刊が2008年なので、休刊の数年前に切り替えた模様。
おそらく、溢れる程手帳系の家計簿が世に出てきたうえ、専業主婦が減ってきて、主婦の雑誌も斜陽の時代になってきていたのでしょう。
「主婦の友」は、1917年(大正6年)創刊の主婦向け雑誌です。
知識階級向けの婦人誌しかなかった時代に、大衆向けに創刊された生活雑誌だったようです。
「主婦の友」と「婦人俱楽部」は1930年台に「付録十年戦争」と呼ばれる付録合戦を繰り広げ、過熱するあまり売れているのに赤字が続いたとか。それだけ、当時人気があったということなのでしょう。
最近の本屋さんでも、バッグやポーチなどを付録にしたぶ厚い雑誌を目にしますが、あれは少しやり過ぎではないのかと、ちょっと心配です。
付録と言えば、「主婦の友」本誌を、母は娘たちに見せたがりませんでした。
母が買うのは決まって新年特集号だったので、まずは豪華おせちなどの絢爛たるお料理写真が数ページ続き、そのあとは出産育児、ファッションやメイク、便利商品や掃除や整理整頓のコツなどの文字記事が多く、子供にはお世辞にも面白くはない本だったのですが、なんと「袋とじ」があったのです。ええ。夜のムフフのやつです。
小学校も高学年ともなると、そのムフフ記事には薄々気がついていました。母がすかさず取って捨ててしまうことが多かったのですが、買ったばかりの年末年始になどは、ちらりと覗き見てしまうこともありました。中はわかりませんが、なにやら怪しげな表紙。いつだったかは、本誌のページに特集されていたこともあった気がします。
Wikipediaによると、1960年代から取り入れられた記事だとか。
世の中のニーズに応えた結果だったのか、それとも売れ行きが伸び悩んだ末のテコ入れだったのか。
ananなどの記事と違い、エロ追求というよりは、飽くまで夫婦間の創意工夫の記事だったのでしょうが(知らないけど)、男女の裸体など大人の男の人が好むものだと思っていただけに、なんでお母さんの本に⁉︎と、ビックリした記憶があります。
先日の片付けで「もういらないの」と母が言い、初期の家計簿三十年分を捨てることになりました。ちょうど「主婦の友」付録の分です。
心の中で惜しい気持ちがありましたが、それを口にしたところで、残したところで、その家計簿を誰がどのように活用できるのか。
今となっては写真に収めておけばよかったかなと思いますが、「勢いがないと捨てられない」と言って箱を開けずに捨てたので、せめてもこうして、文章として母の家計簿の思い出を残しておくことにします。
「私はどんぶり勘定だから」と言う割には、母は、要所要所、細かく家計簿をつけています。
特に、思いがけない出費―――例えば結婚式やお葬式など、必ずメモしてあるので、いつ誰が結婚し、亡くなって、いくら包んだのか、など、後から役に立つことがありました。
現在保管している直近二十年の「高橋の手帳」の家計簿は、まだまだその点で現役の検索ツールです。
新婚当時のメモにもあるように、モノの値段の差にはモノによって違いがありそうですが、物価は常に変動しています。家計簿には、日本経済の波がそのままに映し出されていたように思います。
また、「主婦の友」の表紙やレシピも、時代を反映していました。
年末年始号につく付録だったためか、家計簿自体の表紙もなかなか存在感がありました。
私の思い出の中の母の家計簿は、西陣織のような赤系の派手な色合いの柄に、金文字で「家計簿」と書いてあるもの。
コタツの上によく載っていました。
昭和平成の貴重な資料として博物館に寄付するとか、そういったこともあり得る選択肢、だったのかもしれません。
とはいえ、赤裸々な我が家の経済状況が書いてある個人情報&機密文書。
もしかしたら、50年、100年先には、役に立つ資料となるかもしれない可能性は秘めていますが、さすがに、積極的に見られたいものでもありません。「ミライ、おこづかい1000円、セイラ500円」なんていうのが、いつまでも誰かに見られるなんて、それはそれで落ち着かない。
ちなみに今現在、博物館や文献などで目にする庶民の資料の中には、ときおり「これ、本人は見られたくなかったんじゃないの」と思うものがあります。
「恋文」「ボツ原稿」「借金の言い訳」なんかを、後世の我々が貴重な資料として読み漁っているとは、まさか当人たちは思いもしますまい。
さて。
母自身が「どんぶり勘定」と言う通り、母は金銭感覚は若干怪しいですが、そんな自分に自覚があり、律するためにもしっかり管理するタイプ。
姉のみらいは「どんぶり勘定」の部分だけいただき、妹のセイラには「しっかり管理」が受け継がれました。
五十年以上家計簿をつけ続けるなんて、私にはとてもできません。
というか全然できませんでした。
人生100年時代と言っても今から五十年つけるのも無理。
コツコツ偉業を積み上げていて、自慢してもよさそうなのに「ただの家計簿じゃない」と桑田佳祐並みに(※1)控えめな母です。
色々やりくりして育ててもらったんだなと今更ながら思います。
時代とともに、電子化して家計簿も進化している昨今ですが、アナログな母の家計簿は、それはそれで、私たち家族の歴史資料でもあったのです。
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