のんびり鎌倉紀行 初日午前の部(一番/十番/九番/二番/三十番&鎌倉八幡宮)
みなさま、こんにちは。
タイトルを見て、お気づきになられたかもしれませんが…
いったい、どこが「のんびり」なんだい?
というくらい、初日にいきなり6箇所も回った空ちゃんとみらっち。
言い訳させてください。
とにかく、お参りを再スタートすることが嬉しかったんです。
そして、当日はなんと、梅雨空が続いていた時期の、唯一の晴天。
なんとなく心も弾み、ついつい、足を延ばしてしまった次第。
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2022年、6月初旬。
鎌倉の紫陽花はすでにあちこちで開花しており、例年より早く最盛期に差し掛かろうとしていました。
今回は、花を愛でながらいこう、と話していたのもあり、目玉は「あじさい寺」として有名なお寺、「明月院」と決めていました。
紫陽花の季節の、明月院。
おそらくは人でごった返し、歩くのもやっとだろうと予想。
それでも「その時期」のお寺を味わってみたい気持ちが上回りました。
そして、もうひとつのミッション。
御朱印に「発願」の印をいただくこと。
1番札所の「杉本寺」に行かないわけにはいきません。
どんなコースにしようか、空ちゃんと相談しました。
「明月院」で紫陽花を観てから、とも考えましたが、そうすると明月院ではまた日を改めて御朱印をもらわなければなりません。
先に杉本寺に行くなら、同じ地域にある十番「報国寺」と九番「浄妙寺」をまわり、「浄妙寺」内のレストランで食事をするのが一番効率がよさそうです。
前回とは違うルートで、と考えていた私たちでしたが、結局、「杉本寺」→「報国寺」→「浄妙寺」(&浄妙寺のレストランでランチ)と言う、3年前と同じ行程に決定。
このコースは「鉄板」なのかも知れません。
明月院は、むしろ夕方に回すことにしました。
「杉本寺」までは、京急バスの4番乗り場からの乗車。鎌倉駅発9:30頃のバスに乗り、「杉本観音」下車。
徒歩1分です。
3つのお寺の位置関係は徒歩圏内。
前回の「鎌ほの」の中では、私は勘違いをして(何しろ3年前の記憶)、バスを利用したという記述がありましたが、バスを利用する必要はないです。すみません…
さて、階段を上り、門をくぐると受付があり、拝観料300円を支払います。閉館時間は16時。15時45分受付終了です。
こちらは本堂で御朱印をいただくお寺。
本堂をめざし、直進しますと、さらに階段が。
ただし、こちらの階段は古い苔の階段。
立ち入り禁止のロープが張ってあり、入ることはできません。
迂回した道を通って、本堂へ向かいます。
杉本寺は鎌倉最古のお寺と言われます。
天平6年(734年)、聖武天皇の后である光明皇后の命で藤原房前、行基菩薩によって建立された天台宗のお寺。
開基はなんと1200年以上前。
御本尊は、行基菩薩(日本最初の大僧正)自らが作った一体と、その後、慈覚大師円仁(天台宗三代座主)、恵心僧都源信(『往生要集』のお坊さん)によってつくられた二体をあわせた、三体の十一面観音様。
どのお坊さんも全国レベル・日本史レベルでの超有名人です(※行基菩薩の開基とされるお寺は日本全国各地にあり、行基は近畿一帯を布教し開山していた僧侶なので、伝承に留まるお寺も多いと言います)!
鎌倉時代に火災があった際、御本尊三体自ら(自らって…)庭の大杉の下に避難したという伝説があるそうです。なんか想像すると微妙に可愛いような、怖いような。
それで「杉の本の観音」と呼ばれるようになったのだとか。
本堂正面には、その火災の修繕のため参拝に訪れた源頼朝公が寄進した、十一面観音様があります。
つづく「報国寺」は、大通りから入って少々坂道を上ります。
修学旅行生なども来ていて、観光客も多く、かなりの賑わい。
臨済宗の禅寺です。
杉本寺とはだいぶ趣が違います。
足利尊氏の祖父にあたる六代当主・足利家時が開基(上杉重兼とも)で、鎌倉公方終焉の地でもあります。
遡ると源義家に繋がるとされる足利氏(足利の源氏嫡流説は後の室町幕府の後付けとも言われています)。
義家は「七代後に生まれ変わり天下をとる」と言い残したとか(『置文伝説』)。それが足利の家系に言い伝えられていて、その七代目が家時でした。
家時は自分の代では天下を取れないと悟り、自分の三代後に天下を取るように神に祈念し、なんと願掛け自害(本当は政治闘争の結果と言う説が有力)。
ここ報国寺に葬られました。
その三代あとが、室町幕府を樹立した足利尊氏。
尊氏の四代後の鎌倉公方だった足利持氏は、関東管領の上杉氏とモメたのをきっかけに当時の室町幕府(こちらももちろん足利)と対立しはじめ、それが高じて永享の乱が起こりました。
その乱で、持氏は「永安寺」(瑞泉寺の塔頭になりのち廃寺)で自刃、足利家最後の若君、義久はこの報国寺で自害。
関東足利氏鎌倉公方は滅亡します…
と、思いきや。
実はこのあと、鎌倉公方は持氏の遺児によりサイヤ人のように蘇り、茨城の古河に拠点を移して古河公方となり、鎌倉府じたいは存在しなくなりますが、足利家の血脈は「喜連川氏」として江戸・明治を生き抜き、脈々と現代にも続いているそうです。
室町幕府(京都の足利)が信長に滅ぼされてなくなった後も。
こちらは、拝観料とお抹茶券を買う場所の隣に御朱印受付があります。
拝観料は300円、お抹茶券が600円。
9時〜16時までです。
お抹茶をいただく茶店は、感染症対策もしっかりしていて、順番制。
設置してある手洗いに並んで手を洗い、消毒をして、指定された番号札のあるところに着席していただきます。
竹林を眺めながらいただく抹茶に、ひといきつきました。
午前中の最後は、「浄妙寺」。
こちら「鎌倉五山」の第五位でございます。
拝観料は100円。
ただし、レストランを利用する人も支払います。
9時〜16時30分まで。
鎌倉五山については、以前の拙記事をご覧いただければと思います。
もともと「極楽寺」という真言宗のお寺だった浄妙寺。
のちに足利氏によって中興され、臨済宗の禅寺になりました。
開基の足利義兼は、北条政子の実妹(時子または保子)を妻にしていた鎌倉幕府の御家人です(しっかし、時政の娘だから、政子と時子って)。
ちなみに、史実では北条政子と義時は異母兄弟。
諸説あって、牧の方(りく)の子以外は全員、伊東祐親の孫という説もあるとか。
今回のドラマでは、同母の設定でした。
義時の父親で頼朝の舅である北条時政(鎌倉殿では坂東彌十郎さんが演じています)は子だくさんで、大河ドラマに出てこない子供がワサワサいます。わかっているだけで、男児が4人、女児が11人くらい。
とにかく、その中の娘のひとりが、足利義兼と結婚していた、と。
足利氏は、父方母方とも源氏と血縁関係のため、比較的早い段階から頼朝に与していた御家人で、北条とも代々姻戚関係を結び、御家人の中でも源氏一門として格上とされていたようです。
ちなみに義兼は、源義家の三代後(ひ孫)、さきほどの「報国寺」を建てた宗時の四代前のご先祖。
木曽義仲と同じように頼朝さんのいとこ「なのに」生き残った義兼。
なかなかの世渡り上手だったのではと思います。
…でも、出てきませんね、大河に。
同じように政子の異母妹と結婚していた畠山重忠や稲毛重成は出てきますが。
もうひとり「実衣」という妹が阿野全成に嫁いでいますが(実衣が時子という説も)、彼女は実朝を育てているので、これからが重要なキャラクターです。
足利家は、藤原足利と源氏足利の二つに分かれ身内で争っていましたが、義兼の時代に藤原足利が滅亡し、今の埼玉の北、栃木県の南の下野の国(足利)を領地として栄えたとか。
お家騒動に忙しかったせいか、微妙に目立たなかったせいなのか、政争に巻き込まれず、嫡流が後世に残ったとも言われています。
浄妙寺付近は足利氏の鎌倉での拠点でした。
浄妙寺になったのは禅宗の寺になって以後、中興開祖の足利貞氏(尊氏と直義の父)の戒名を取ってその名がつけられたとのこと。
後述の「山あじさいの小径」付近の奥のほうに、お墓があるそうです(今回は行きませんでした)。
また、この地に藤原鎌足が鎌を埋めたことから「鎌倉」という名前になったという伝説があるそうです。
今回のルートは、鎌倉殿というより「足利氏」の足跡をたどるコースといえるかもしれません。
さて。
浄妙寺と言えば、『石窯ガーデンテラス』というレストランがあるところ。
時間的にも、今後の予定を考えても、疲労度を鑑みても、ここでランチがベストと言う結論に。
今回は、空ちゃんはもちろんのこと、私も写真をたくさん撮ったので、本当はもっと掲載したいのですが、あまり多くなっても読みにくくなるのでこの辺で。
午後の部に続きます!
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最後に、おまけ。
ちらりと今週の「鎌倉殿」。
今回は頼朝さんの死をめぐる回でした。
吾妻鏡では、頼朝さんの死の前後数日の記述がぽっかり抜けているということで、このあたりも、三谷さんの脚本でどうなるのか興味津々でした。
その死をめぐっては、病気説、事故説、怨霊説、暗殺説と、様々な説があり、専門家の間でも諸説飛び交うところです。
今回の大河では、死因は「どうとでもとれる」ものでした。
突然呂律が回らなくなったことからは突発性の病(脳血管障害等)を連想させるし、何かを視て怯えているようにも見えました(亡霊・怨霊の類)。
出立の前には餅をのどに詰まらせ、水を欲した頼朝に義時が竹筒を渡し、中身を飲んでいます(必ずしも義時ではないにせよ、他者による毒殺・暗殺の可能性。義時黒幕説も根強くあるそうです)。
頼朝が落馬したときに関係者に聞こえていた不思議なおりんの音は、義時にだけは聞こえていませんでした。
その時、義時は誰かの墓に手を合わせていました。
八重の墓碑だったかもしれません。
おりんが聞こえていたのは政子を始め、りく(のちに牧氏事件が…)、頼家(義時に殺されそうになるも政子が伊豆に逃がし蟄居幽閉の末暗殺)、梶原景時(梶原景時の変はこのあとすぐ…)、三浦義村(このひとはいろんな事故事件に絡むけど和田を裏切ってしぶとく生き残る)、和田義盛(義時に追い詰められ壮絶死)、比企能員(比企の変ももうすぐ…)。
頼朝の死後、激しい政争に巻き込まれていく人々です。
義時だけが、まるで台風の目にいるかのような演出でした。
それはもしや、もしやなのか?
黒幕なのか?小栗旬。
三谷さんの「鎌倉殿」では、頼朝さんは、以前から頻繁に後白河法皇の夢をみたりしていましたし、今回も自分の死を予感するような夢をみるシーンから始まり、残酷であると同時に神経質でもあったように描かれていました。
他人に対する不信感や不安感など、精神疾患を患っていたかのような様子もみせていて、ダメ押しに餅をのどに詰まらせるなど、これでもかと「死亡フラグ」が立ちまくっていましたね。
全部ぶっこんできたのね、という印象です。
これから、「北条」がどう立ち回るか。
いよいよ本格的に物語が動き出しますね。
ちょっと怖いけど、次回からの続きが楽しみです。
長文記事でしたが、最後まで読んでいただきありがとうございました!