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鎌倉ほのぼの散歩 二十六番「海蔵寺」

 2019年、11月。晩秋の晴天のある日。
 空ちゃんとみらいの鎌倉三十三観音様参り「6日目」です。

 行程は、鎌倉から北鎌倉へ向かうコース。
 現在「寿福寺」を出て「海蔵寺」に向かうところ。
 寺と寺の間隔が離れている、源氏山方面の、最も歩きの多い道のりです。

 前回はこちら。

 ところでですね…

 あ。すみません。
 ちょっと寄り道いいですか?

 昨日の『鎌倉殿の13人』なんですが。笑

 義経は「腰越状」を平宗盛に代筆させたんでしょうか…

 それだけ、昨日から気になって気になって。

 当初から、この物語においての「腰越状」がどう描かれるのか、興味津々でした。

 「腰越状」については、現代は諸説紛々で、義経が書いたのではないとする専門家もいるようです。でも、腰越状のような「起請文」というのは、普段の手紙と違って神に誓うこと前提で書くものです。命を懸けて書くものと言えるかもしれません。
 起請文に反したことをすれば天罰が下るのは必至、良くて「不運」、悪ければ「失命」というのが当時の人々の常識。

 頼朝は、それまでに書いた義経の起請文をすべて無視しています。
 それだけでも結構、酷い。

 「鎌倉殿の13人」の中では、平宗盛が人間性あふれる「誠実ないい人」っぽく描かれていましたが、そうでしょうか…

 源家の誉を讃えよと訴える「起請文」を、腐っても平家の元棟梁である宗盛に書かせる…?

 「鎌倉殿の13人」での義経は、判官びいきのイメージ打破のためなのか、かなりアクロバティックなキャラ変更を試みているようですね。弁慶のキャラの薄さは類をみないですし。
 確かに弁慶は実在したかも怪しいくらいの人物で、義経は比叡山をドロップアウトしたような僧を集めて半グレみたいな集団を庇護していたらしく、弁慶はそれらの僧の総体としてのキャラクターという説もあります。

 今回の三谷さんには、あくまでもことごとく、これまでの固定観念を打ち破ろうとする意気込みを感じます。

 「シン」ってつけるなら、これじゃないですかねぇ。笑

  ともかく、代筆には驚きました。

 いやぁ~でも、私はやっぱり「腰越状」は自分で書いたものであってほしいと思います。
 単なる個人的な願いにすぎませんが、代筆はモヤモヤするなぁ。笑

 ということで、「鎌ほの」に戻ります。
 いまさら戻れるのか、という感じですが、戻ります。

 「寿福寺」を出て、次の「海蔵寺」に向かっているところでしたね。

「海蔵寺」は、四季折々の花が咲き乱れる古刹で、ざっくり言ってしまうと非常にフォトジェニックです。
 そのため、こちらのお寺の写真はこれまでで最も多いです。

 特に4月の「海棠かいどう」、9月の「はぎ」が有名なのだそう。

 寿福寺からもかなりの距離を歩きましたし、駅からも遠いです。が、想像していたより道は平たんで、確かに山に向かうのですが、緩やかな坂道、という感じ。道も比較的わかりやすく、ナビ子のお世話になる必要もありません。

「海蔵寺」は、お寺そのものはこぢんまりとしています。でも、見えてくると「おぉ」と思います。ちょっと見上げる感じになって、赤い傘などが置いてあり、どことなく華やかなのです。

 その日は、結婚式の前撮りのような撮影会の真っ最中でした。プロの方の指示に従って、着物姿の花嫁さんと花婿さんが、仲睦まじく撮影をしていました。もしかしたら、何かパンフレットの撮影だったのかもしれませんが、モデルさんという感じではなく、親族もわずかにいたのでおそらく前撮り。

 とりあえずその邪魔をしないようにお参りをして、御朱印をいただきました。

 このお寺は、六代将軍宗尊親王の命によって、藤原仲能が七堂伽藍の大寺を建立したのが開基とされます。が、鎌倉滅亡の際、全焼。

 室町時代になってから、足利氏満の命で再興されました。当時は薬師如来を本尊とする大寺だったそうですが、次第に衰退したようです。

 こちらのご本尊の薬師如来は、「啼薬師」という胎内仏がいらっしゃって、ちょっと不思議な伝説があります。
 裏山から毎晩のように赤子の泣き声が聞こえるので、念仏を唱えてその場所を掘ったところ出てきた仏様だそうです。

 観音様は十一面観音様。

 井戸も多く、いろいろな謂れのある井戸が周囲にいくつかあります。

 裏手に回って少し歩くと、十六の井、という洞穴があります。
 ひんやりと寒くて、中には穴がいくつもあいていて、それが十六あるから十六の井、というそうです。湧水が絶えることがないそうな。

 ここは、でもちょっと怖かったです。さっきネットで検索したら、納骨堂だったともいわれていると書いてあるものがあり、うわぁ、なんかそういう感じしたわ~とちょっと思いました。

 ところで、海蔵寺を出て、駅方面にしばらく戻ると、「岩船地蔵堂」というところがあります。

 こちらは、頼朝の長女、大姫を祀ったお堂とされていますが、二の姫の墳墓であるなど、諸説があるようです。

 このお堂は「海蔵寺」に属しています。

 「鎌倉殿の13人」では、幼い大姫が喉元に短剣をつきつけ、頼朝に木曾義高の助命嘆願をしたシーンがありましたが、婿として幼馴染として一緒に暮らした義高の非業の死を受けて、大姫はその後大病を患い、17歳で生涯を終えるまで良くなることはありませんでした。精神的疾患、今でいう摂食障害だったともいわれています。

 頼朝は二人の娘を天皇に嫁がせようとしましたが、二人とも若くして病死しています。頼朝の実子はすべて亡くなり、子々孫々が絶えました。

 自分の道を邪魔する者であれば身内でさえことごとく排除していく父を見て、ショックを受けない娘はいないかもしれません。人間不信にもなると思います。

 今回の「鎌倉殿の13人」では、坂東武士を下に見て、流浪の末世話になった伊東家、挙兵を助けた北条家でさえ手駒としかみていない冷徹の一方で、聖観音信仰の厚い頼朝がよく描かれていると思います。

 私は「娘」であるので、こういう父親だったらどうしよう、とちらりと考えました。怖い怖い父。人質とはいえ、自分の婿として迎え入れた人間を、冷酷・残酷に殺す父。人間として信じられないと悩むのは当然だろうなぁと、思ったりします。

 そして自分が産んだ子供がことごとく死んでしまった政子。いくら強い人というイメージがあるからといって、まさに命がけで産んだ子供が自分より先に全員死亡…そんなことってあるでしょうか…

 何かを成し遂げるためには犠牲になるものも大きいということなのでしょうか。

 鎌倉を廻るときは時折、平家物語と同じ「諸行無常」を感じずにはいられません。特に「海蔵寺」の「岩船地蔵堂」では、何か言い知れぬ無常を感じてしまうのです。

 次はこちら。







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