《自論》「人の為」「優しさ」という言葉が人を弱くしているのではないか?という話。
「人の為に」て、はっきり言って雑魚だと思うよ?
「人の為」とか「優しさ」とか
「平均化社会」の為に作られた美徳だと思うから
「人の為」て本当に人の為?
「優しさ」は何のために行うの?
見せかけを良くして、美しいベールで包んだだけで
中身はただの卑屈ではないだろうか?
そう思ってしまう
「雑魚」というのは、私が人をジャッチした言葉ではない
何故なら
雑魚にしているのは、他人ではなく
「自分自身」だから
自分自身を見くびり
人からの評価を恐れ
自分の人生を生きることを諦めた
哀れな存在
「人の為」も「優しさ」も
「雑魚」にベールを着せたものに過ぎないのではないだろうか?
確かに、人は一人で生きている訳では無い
だから、他者の存在を尊重することも大切
他者の命お粗末にしていいものではない
ただ、これは「人の為」でも「優しさ」でもなくて
生き抜く上での『必要事項』ではないのだろうか?
何も
「人の為」だと美化して称えられることでも
「優しさ」と称して好意を寄せるものでも
無いのではないか?
「感謝」することは大切だと思うけど
それは、何も「人の為」「優しさを持って」動く人が珍しいからではないだろう?
「受け取ったから」という『礼儀』ではないのかなと、私は思う
何も考えないで
自分さえ良ければいいで、自分を見失って
与える相手も
比べる相手も
頂いていることも…
見失い
他者の存在を「苦」とし「敵」と見なし
そんな哀れな自分を慰めの美徳というベールで美化して
絶対のモノ
正しいモノ
であろうとする
雑魚ではなかったとしても
どうなったらそれが『強さ』になると思う?