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うつ病になった私。

こんにちは。みっぽんです。
今回は、自己紹介の意味も含めて、私がうつ病になってしまったお話をさせてただこうと思います。

初めての教員生活

数年前の話にさかのぼります。
小学校の教員をしていた私は、1年目から担任としてクラスをもち、
2年目には一年生の担任となりました。

子どもたちの学びを支えてあげられる先生、みんなの個性を大事に育ててあげられる先生、そんな先生になりたくて、必死に勉強しました。

でも、現実はそう甘くはありませんでした。
(もちろん子どもたちと過ごす時間は最高の思い出です。)

自分より年下の先生なんて信用できないという保護者の方、
学校行事は若い先生たちがやればいいという年配の先生方、
年配の先生方の支持を得たい管理職の先生方、
「この学校は私も初めてだから分からない」の一点張りで質問に答えてくれない学年主任、指導は学年主任の役割だから主任に聞きなさいという他の先生方・・・。

教員生活2年目

特に2年目の一年生の担任は大変でした。
子どもたちも保護者の方も「初めて」の小学校ですから、不安があるのは当然です。
きっとベテランの先生に担任をしてほしかったでしょう。
でも、担任は大学を卒業して2年目の24歳の若者です。
第一印象で信用されることが難しいことは分かっていました。

それでも、子どもが大好きなこと、大切なお子さんを預かっていることに責任もつことを入学式のあとの学級でしっかりと伝え、安心してもらうためにやれることは全部やりました。

当時私の担当した1年生は全部で3クラスありました。
通常、授業の進捗やイベントは他のクラスと揃えるもの(らしい)ですが、
初めて1年生を担当した私はそのようなことは知らず、2年生の担任のときと同じように自分のクラスのことは自分で決めるものだと思っていました。

学年主任も、自分のクラスのことだけしか見ていませんでしたので、私のクラスについて気にかけてくれることは一切ありませんでした。
そして、もう1クラスの先生は、私の1つ上の年齢の若い先生でしたが、休みがちな先生だったため(先生としてどうなんだという感じですが)
学校全体の仕事や部活動の顧問などの仕事は任されていませんでした。
その結果、私が部活の指導で体育館にいる間や、校内を走り回っている間に、職員室にいる二人で学年の行事や授業について話して決定していることが多々ありました。

そして困ったことに、それが「学年の決定」になっていたのです。
私は話がされていることさえ知らなかったので、自分で考えてクラスのイベントなどを決めていました。
当然、ズレが生じます。
そしてその「ズレ」は、次第に大きな亀裂となっていきます。

例えば「授業参観」。
他のクラスのお二人は板書もそろえていたらしく、私は、明らかに違う授業をしているように見られました。
3クラスのうち、2クラスが同じ授業をしていたら、「違う」というだけで私のクラスは異質に思われます。
保護者の方だって、小学校の保護者1年生なのだから、それは仕方がない。

事前に、授業そろえよ〜と言われたって、お断りしていたかもしれない。
(そういうのあまり好きじゃない。)
でも、そもそも相談もなかったらただただ私が異質にさせられただけ。
それってどうなの〜〜〜〜と。
後々保護者の方から、「なんで違う授業だったの?」と聞かれて知るという悲しさ。。。

そんなエピソードが山ほどあり、心身ともに疲弊していきました。

理想と現実のギャップ

理想の先生像
現実の自分

そもそもの仕事量が多すぎる教育業界自体が問題な気もしますが、
赴任先の学校は
・若手が動け
・学校全体のことは若手がやれ
・家庭がないのだから、若手は時間があるだろ、働け
という風潮の学校でした。

もちろん、学校によって全然違うのだと今ならわかります。
今更ながら、ハズレだったな〜(私には合わなかったという意味)と思います。

でも、赴任先の学校の事例しか分からない私にとって、当時はそれがすべてでした。

子どもたちの成長や学びのためになりたくて教員になったのに
毎日毎日、雑務や学校の行事の運営、学年の催しの企画・準備などが優先的に行われ、自分のクラスのことに手を付けられるのは21時を過ぎたころ。
一番やりたかったはずのことが一番ないがしろになってしまう日々が続きました。

限界がきた

「みっぽん先生」の時間が1日の大半を占め、
ようやく家に帰ってからも、仕事があるから早く休まなきゃと寝に帰るだけ。
土日も部活動や学級の掲示物の作成、宿題の丸付け・コメント・採点で出勤しない日はありませんでした。(もしくは大量の持ち帰りを家でやる)

そんな日々で「みっぽん」が「みっぽん」でいる時間がなくなり、「みっぽん先生」だけが無理して笑顔を貼り付けて仕事をする生活を続けていたある日。
朝、突然涙が止まらなくなり、玄関から一歩も動けなくなりました。

思えばあのころ、自分の限界は当の昔に超えていたのだと思います。
それでも、「とにかくやらなきゃ」「終わったら次はこれ」「手が空いたらこれもやっておきたい」と、やるべきことに追われて余裕のなかった私は、『もう限界だ』と叫んでいた心の声に耳を傾けることができませんでした。

学校から病院に行けと言われて、
「うつ病だ」と診断されたとき、「クラスの子どもたちに申し訳ない」という気持ちもありましたが、なによりも「しばらく仕事に行かなくていいんだ」とホッとしたことに自分でも驚きました。

そんなこんなで診断を受けてからは、休職に入りました。
結局、休職の期限が近づいても、うつ病がよくなることはなかったため、復職を断念。
療養生活へと入ります。

その話は、またどこかで。

最後まで読んでいただいてありがとうございました。


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