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勝手に幸せになる

「自分の機嫌は自分でとる」
なんてワードが話題になった昨年。
いや、一昨年か?
まあそれはどちらでも良くて、この数年間私は見事に自分のご機嫌とりをやってのけてきたつもりだ。
手軽に自分をご機嫌にさせる方法はたくさん知っている。
なんというか、1人で生き抜く強さをめきめきと身に付けてきたような自信があるのだ。

強い私がすでに出来上がっていた昨年の夏頃に、今の彼と付き合うことになった。
恋愛感情がうまく理解できない私にとって、人と付き合うなんて未だに不思議な出来事だとは思う。

彼とは元々友人で職場も一緒だったので、共通の知り合いがめちゃくちゃ多い。
そんな周りの人間から、付き合い始めた当初言われた言葉に対する違和感が今もずっと付きまとってふと考えてしまうことがある。

私に向かってくる「幸せになってね。」
彼に対して放たれる「幸せにしてあげてね。」

私の幸せを願ってくれているからこその言葉だろうということは分かっているつもりだ。
そして、そう願ってくれる友人には本当に感謝している。

でも、何か違う。
この違和感はなんなのだろう。
他人なくしては幸せになれないのか?
今までの私は幸せではなかったのか?
パートナーがいることイコール幸せなのか?

他人に関係なく私は私で幸せでいたい。

1人で何もしない時間が大好きだし
休日に5度寝して気が付いたら深夜なんて最高だし
keisuke kandaの服に触れているのも
the Virgin Maryで古着を選ぶのも
水族館でクラゲに癒されるのも
ライブハウスで好きなバンドを見ることも
仄暗い映画を1人で観て悶々と思考を巡らせる時間も
全て私にとっての幸せだ。

冷たい言い方をしてしまえば、そこに彼は必要ないのだ。

もちろん、彼には誰よりも感謝しているし、救われているとも思う。
生活の中で自分を肯定してくれる存在がいるという安心感は今までの人生で知り得なかった感覚だ。

ただ、もし別れても私はちゃんと生きて生活ができる自信がある。
幸せにだってなれる。

1人でも幸せを感じられることが強いと表現されるのならば、きっと私は最強だ。

1人だから、1人でできることが増えたのか
1人でできることが多いから、1人なのか
鶏か卵かのようなこんなことを、何年かけても分からないまま頭の中でぐるぐるぐるぐる巡らせてみたりしている。

他人に幸せにしてもらうことを求めてはいないし、もちろん自分が他人を幸せにできるなんて自惚れもない。
「幸せになってね。」「幸せにしてあげてね。」に対する違和感の正体はきっとこれだ。

こんなことを言ってはいるけれど、他人に頼って生きることができる人を弱いと思っている訳ではない。
というか尊敬するし羨ましい。
その才能がもっと欲しかった。
何かあった時に帰れる家族があったり、死にたい時に相談できる相手がいることは、運であり、才能だと思う。
その才能があれば、1人で幸せになる強さなんて必要ない。
一生誰かが幸せにしてくれるから大丈夫。
自分のことを守れなくても、守ってくれる誰かがいるから大丈夫。

でもまあ、勝手に他人に期待して、勝手に信用して、勝手に裏切られたと感じて被害者面する人間は正直すごく嫌い。
知らねえよ頭悪いお前の自業自得だよって思う。ごめん。
でもそういう人間に限ってうまく生き抜けるようになってるんだよなあ。

私にとっての強さは、逃げ道がたくさんあること。
1つのものに依存しないこと。
孤独の共存が他人とできること。

幸せの独り占めも、共有も、なんでもあり。

何を幸せだと感じるかなんてその時の自分次第でコロコロ変化していくものだろう。

1人でも、私は私を幸せにしたい。


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