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【短編小説】やがて世は知る完全なるを

 白い壁とガラスで構成された無機質な建物の、長い庇の下に置かれたテラス席。腰掛けた一人の女が庭の緑を眺めながら頬杖をついている。
 土曜日の午後の美術館はそれなりに混み合っていて、併設カフェもテラス席まで人で埋まっていた。

 にぎやかな周囲に溶け込みながら、彼女は夫を待っている。もう長いこと会っていなかった。

『最後に会ったのはいつ?』

 端末から声が聞こえてくる。待ち人が来るまでの間、友人が話し相手になってくれているのだ。友人の優しさに感謝しながら、女はイヤホンを引き寄せて内緒話をするように声を吹き込む。

「いつだったかしら。一つ前の春の頃?」
『うそ。もっと前』
「なんであなたの方が知ってるのよ」
『いつも相談してくるでしょ。さすがに覚えるって』
「そうだったかしら」

 しらばっくれながら女は紅茶を一口味わう。添えられた白い皿には美しい小菓子たちが並んでいて、孤独を少しばかり癒してくれる。

『どんどん長くなってるじゃない』
「嫌なこと言わないで」
『事実だもの』
「私たちだって、会いたくないわけじゃない」
『そりゃそうだけど! 今度は何で?』
「わからない。ただ、呼ばれるんですって」
『呼ばれるって。今になって、いったい誰に?』
「また何か流行っているんじゃない?」
『定期的にブームくるものね……』

 女の夫は人気者だ。人に求められる形に姿を変えて、自身の時間を与えている。
 それが夫や自分たちの仕事であり、在り方だとわかっているから責められはしない。でも友人の言う通り、会えない期間はどんどん長くなっていくのだった。

『辞めちゃえれば良いのにね』
「無理だってわかるでしょ」
『そうなんだけどさぁ。あなたはそう思ったことないの?』

 返事をするタイミングが少し遅れた。

 画面から目を上げて周囲を見回してみる。
 コロコロと子犬のように内庭を駆け回る子供たちが二人、それを慌てて追いかける父親の姿が見える。子供は美術品には早々に飽きてしまったのだろうか、先ほどからずっと3人でボール遊びをしている。
何かにつまずいて転がった小さな女の子を抱き上げて、父親はやれやれと言う風に笑ってみせる。

「ないとは言えないけど」
「そりゃあ、全部どうでも良くなる時だってある」
「私だって、こんなこと続けていれば疲れるから」

 声に乗せて言葉にしてしまおうかと思ったが、どうにも喉から音が出てこなかった。
 そこに一つ、異なる相手からメッセージが入る。

『ごめんなさい。あと1時間くらいかかりそう』

 申し訳なさを表しているらしい困り顔の、どうにも間が抜けた鳥のスタンプが送られてくる。(ひょっとしてこれは鷲だろうか)
 タイミングの良いメッセージに、ふう、と女はため息をついた。

「ちょうど今連絡きたわ。まだ来れないって。」
『あーあ! 今度は彼、どんなとんでもない逸話がついちゃったの』
「本当よね。いつの時代もみんな、下世話な話が好きね……」
『ね! びっくりした。どいつもこいつも浮気しすぎじゃない!?笑』

 そうやって笑ってくれる、友人の清々しさが好ましい。人から見れば、女の夫は随分と浮気者に見えるそうなのだ。というか、彼女たちの同族の男性は皆、基本的に気が多くてだらしない、らしい。

『別にさ、特別なんだから遊ぶのが許されるのは当然! って当時の人らが思いたかったのは、まあ、勝手だけど』
『そのために変に名前を使われるのはいい迷惑』
「それがいつの間にやら真実ってことになってるんだから、嫌になる」
『ね。一途なのにね〜』
「……そうね」

 人の噂に振り回されていくうちに、彼女と彼女の夫は会える時間が少なくなっていく。ああまた、と言って女の元から離れていくときの、夫の悲しそうな目を忘れられないでいる。

「仕方ないね。私たち、求められると応えずにはいられない」

 彼女たちはそう言う生き物なのだ。人に求められ、そうあれと願われなければ存在できない。かく言う自身だって人の願いに縋っている。

 美しい風景を思い出す。

 かつて山々に囲まれた海に浮かぶとある島で、彼女を求めた人々は、大きな大きな家を建てた。石造りの柱が立ち並ぶその美しい家に、人々は誰も彼もが訪ねてきたものだ。
 年齢も性別も身分も関係なく、ただただ道に迷ったように不安げな様子で、安堵を求めてやってくる彼ら。女にとって、彼らはとても……愛おしかった。自らの父母のようで、恋人のようで、夫のようで、子供のようで。だから愛し、守り、応えてやりたいと思ったのだ。

 そんな彼女の大きな家も、今は青い草原のただなかに、ほんの一部が残されているだけ。かつてそこにいた人々も、彼らが捧げた賑わいも。今はもう語られず、どこか遠くへ行ってしまった。

『勝手だ。勝手でわがまま、自己中心的』
『好き勝手使って、本当の私たちのことなんて、もう誰も覚えていない』
「そうね」

 失われた大きな家を思い出す。ほんの少しでもその面影を感じる場所があると、女は今でもつい立ち寄ってしまう。柱の根元に居ついては、そこを行き交う人々をじっと見つめる。今はもう、当時の信仰は失われ、変容したあり様のみを求められていると知っていても。

「腹立たしい。好き勝手願うだけ願って、困ったときにしか思い出さなくなって」

 前を見れば、先ほどの親子がシートを広げて昼寝をしていた。父親のお腹に覆いかぶさるようにして眠る男の子、腕の下に潜り込んで眠る女の子。三人は青空の下でずいぶん気持ち良さそうだ。
 横を見れば、何か考え事をするように、一人の女がぼうっと庭を見ている。忙しなく端末が振動しているが、彼女はそれを意図的に無視しているようだ。
 ガラス越しの店内を見渡せば、大学生くらいの若者のグループがビュッフェの料理をお皿に山盛りにしている様子を、老年の女性たちが振り向きながら笑っている。
 左隣の席ではカップルが何やら刺々しい口調で話し合っている、かと思えば、だんだんと口論になってきた。

『ずいぶん賑やかなところにいるね』
「正直やかましいわ」
『良い暇つぶしになりそう』
「とんでもない。騒ぐだけ騒いで、どうせすぐいなくなる」
『寂しいの?』

 図星を突かれて押し黙った。
 そう、寂しいのだ。

「当たり前じゃない。どれだけ待たされてると思ってるの」

 人々はいつも、彼女から大切な者を取り上げてしまう。女から大切な者が離れるように、彼らは描き、書き、語り継ぎ、それを物語にしてしまった。

『怒ってる?』
「そりゃあそうでしょう! だって」

 だって彼らは、好き勝手願い求めるくせに。

「怒りたい相手なんて無限にいる」

 それなのに、彼らは瞬きほどのスピードでいなくなってしまう。

「怒らせてすら、くれないくせに」

 彼女は応えたかった。怒りによって、慈しみによって。
 求められたからには全てに応えてやりたいのが彼女たちの性だ。
 だが、人は決してそうはさせてくれない。縋って願うくせに勝手に悩んで苦しんで答えを出して、傷だらけになって走り抜けていく。
 そうして一瞬の営みを無限に繰り返していく中で、いつの間にか本当の彼女を忘れて行った。

『……愛しているんだ』
「知らない、そんなこと」
『憎まれ役までやらされてるのに。私たちの中でも一番貧乏くじ引いてるでしょ』
「あなたも良い勝負じゃない。性愛に奔放で母親としては落第。最悪」
『本当にどうにかしたい』
「どうして私たち、どこかで必ず落第点取らされるキャラづけなのかな」
『徹底的に抗議したい』
「私は異常に嫉妬深い。妻としては貞淑でも、夫を監視し他の女を酷く罰する」
『恣意的に歪められた女神像に断固反対!』
「キャラ崩れてきてるわ」
『知らない!! 私のキャラ付けは私が決める!!』
「あはは」

 画面の外で気の強さを燃やしている友人を想像して気分が上向く。そうしてとある本を思い出した。

「そう言えば知ってる? 私たちのじゃじゃ馬が本を出したの」
『見た見た。と言うか締め切り前に校正手伝ったわ』
「ええ!? それは……ご苦労様」
『変えてやるこの世界を!! とか燃えてんのあの子』
「深夜テンションってやつね」
『でもね〜〜なんかね〜〜、』
「ん?」
『ちょっとこう 良いなあって思っちゃった』

 少しの間返事をすることができなかった。机に突っ伏して嘆いては、すぐさま復活して情熱に燃えていた彼女を思い出す。あのギラギラしたエネルギー。

『なんだかあの子が生まれた時のことを思い出しちゃった』

 どうやら友人も同じことを考えていたらしい。
 と、端末がポロンとメッセージの到着を知らせる。

「ああ、やっと到着するみたい」
『わーーーよかった! 待ってました!』

 自分のことのように喜ぶ友人に、ふふ、と微笑みが漏れる。画面越しであっても、愛と真なる美は彼女から迸っているのだ。

『お邪魔しちゃ悪いから! それじゃあまた報告してね!』
「はいはい、ありがとう」

 通話が終了した音から間髪入れず、ぐっ! と親指を立てているイルカのスタンプが送られてきて(この時代のイルカに親指はあるのだろうか)、友人との会話は終了した。

 ふう、と一息つけば、再び、午後のにぎやかな空気が彼女の周りを取り巻く。吹き抜ける心地の良い風が草の匂いを運び、青い空が雲を流していく。

 ふと、隣の席に誰かがそっと座る気配がした。
 顔も見ずに切り出す。

「ねえ、この本知ってる?」

 彼が悪いわけではないとはわかっているが、それでもちょっとした意趣返しだ。
 振り向けば、なんと詫びれば良いか、と口を開き兼ねていたらしき待ち人が、急な問いかけに戸惑っている。
 ん? と目を見て聞けば、男は困ったように笑って見せた。

「名もなき彼女たちのための……読んだよ。直接もらったんだ」
「本当、突飛なことをするというか、行動力すごいのよね」
「うん。そこがあの子の良いところだ。あの、ところで」
「しっ」

 男がさあ今にも謝ろうと、開いた口を閉じさせる。謝ってもらうよりも、少し話を聞いて欲しかった。

「あの子ね、何だか最近イキイキしてる」
「……それは見てて思うよ」
「なんだか、変な話なんだけど。ちょっと良いなって思うわけよ」
「イキイキしてるのが?」
「それもそうなんだけど」

 うーん、とうまく言葉にしようと女は考え込む。男はそれをじっと待っている。そうね、と女が言葉を探し出す。

「変えようとしてるのが、良いなって思うのよ」
「へえ」
「私も何かやってみようかしら、……とか思っちゃって」
「おお。……何をやってみたいの?」
「そうね。変えてみたい、って思いがある」
「変える?」
「そう、ずっと同じことを繰り返してはがっかりしてる今を、変えたいのかも」
「そ。……それは、私にも責任があるね……」
「いやいや。私たちのことだけじゃないのよ。もちろん私たちもそうだけど、」

 何より私たちを求める者たちに、知って欲しい。本当のこと。かつて時代に許されず、語れなかった多くのことを。

 どう思う? と訪ねてみる。
 自分のあり方を決めるために、女が他者に問いかけをすることは非常に珍しい。ただ、どんなことにも例外はある。
 彼女は彼を信じている。
 彼女と彼は、はるかな昔から、どんなに姿を変えられようとも、ともに戦い歩んできた相棒でもある。忌憚なく意見を交わし、彼自身と彼のやりたいことを尊重し、彼女自身と彼女のやりたいことを尊重されたいとも思っている。

 黙って考え込んでいる男を、女はじっと見つめている。
 しばらくの沈黙の後、男はうん、と頷く。

「おかしいと思ったら戦う。祈る者たちのために立ち上がる。あなたらしくて良いと思う」

 女は夫の「らしい」鷹揚さを、好ましく思い微笑んだ。
 彼は鷹揚が故に色々と人々の求めに答える性分の男であり、それによって二人は苦しめられるところでもある。それでも大樹が枝を広げ鳥たちを憩わせる様に、受け入れる者であろうとする男のあり様、その大きな構え方が女は好ましかった。それと同時に、彼女のために愛を尽くそうとする一つの心も。
 このあり様がおかしな様に曲げられないよう、そして彼女自身のためにも、彼女は自分自身の足で立ち、戦い、切り拓こうと考える。

 決意を新たに瞳を輝かせる女を前に、ところで、と男が切り出す。

「今回も、また遅れてしまって……お詫びの印に」
「ええ? ……いつも言ってるけど、そんなの良いのに」
「良いから。私が渡したいだけってのもあるんだ」
「……何のこと?」
「ほら、これ」

 得意げな顔をした男が、女に両手を出すように促して、とある物を手のひらの上に置いた。

「え? ……これって、」
「もらってきたんだ」
「まさか……あなた、わざわざあんなところまで行ってきたの!?」

 弾けるような声を上げて女が笑う。それを見て男はほっとしたように、嬉しそうに顔をほころばせた。

「それで時間かかってたわけ!?」
「いやいや、そこは急いで行ったさ! その時間は誤差の範囲!」
「いやだってあなた、西の果てよ、果て!」
「今は途中まで飛行機で行けるんだよ!」
「飛行機!? 飛行機使ったの!?」
「まあ、その方が途中までは早いから……」
「あ〜〜ははは! おかしい! 飛行機! ヘスペリデスに飛行機! あーーお腹痛い!」
「そんな笑う!?」

 ケラケラと声を上げて笑う女と、半ば困り顔の男。
 女の両掌には黄金の林檎が一つ乗っている。つやつやと輝く果実の表面には細やかな文字が刻まれていた。

『愛するへーラー、完全なる貴方へ捧ぐ』




【あとがき】

藤村シシン先生のギリシャ神話講座を受講し、

・当時書かれた神話の中には認められていないけど、本来はもっと異なる側面を持つ、完全性のある女神たちだったのでは!? そんな姿があっても良いじゃない!!
・本来の女神や女性、本来あったであろう別側面や、完全性を妄想して創作したい!!

という思いが燃えております。

ヘラのための大きな神殿の遺跡が現に存在し、大きく信仰を集めていた偉大な女神であるからには、神話で語られる意地悪な継母的な存在には収まらないだろうということ、そして、余談であった、ゼウスだって本当はヘラ だけを愛したいかもしれないし! という視点が好きすぎて描きました。

完全なる神々の姿は、今となってはお互いだけが知っているのかもしれません。

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