66/1097 人を羨ましいと思う瞬間をよく見てみる
自己探求が好きなわりに、ネガティブな感情が湧いて出てきたとき、深く感じることなく早々に目を逸らしている自分に気が付いていたここ最近。
ネガもポジも、陰も陽も、プラスもマイナスも、どちらも全部まるごと抱きしめるのが大事なこと!と自分で書きながら、全然自分自身ができていない。
この気付きの衝撃。チーン。
昨日今日で自分にわいてきたネガティブな思いと、その瞬間に自分に何が起きていたのかをここに正直に記しておこうと思う。
まずひとつ目。
ある人から頼まれごとのメールが送られてきた。何のことはない、あるデータを送ってください、という簡単なもの。1分でできる。
しかし私はこのメールを見た時に、自分の内側がざわつくのを感じた。渡したくないと思った。
というのも、このデータというのは仕事の上で私が担当していたこと。もちろん共有して問題ないものだし、むしろ共有すべきデータだと思う。
けれど私は、渡したくないと思ったのだ。だって私がやったんだもん!私だけのものにしておきたいんだもん!秘密にしておきたい、奪われたくないと思った。
そしてふたつ目。
SNSで知り合いの投稿が、大きく評価されてシェア拡散されているのを見た時、内側がざわついた。
どうせ私はダメなんだ、どうせ私には才能がないんだという声がした。
もちろんこの投稿に私のことなど出てくるはずがないし、そもそも私のことなど思い出し手すらいないというのに!だ!
ここまで書いてみて、とても情けない気持ちになっている。
まずは自分の器の小ささに絶望している。こんなことにいちいち動揺しているだなんて…。なぜもっとおおらかな気持ちで接することができないのだろう?とまた自分を責めたくなっている。
あとは、それをそのままさらけ出して今ここに書いていることに恥ずかしい気持ちになっている。そんなこと書いてどうなるというのだ、隠しておけるし隠しておいていいものではないか!と。
が、しかし。
私はこういうことから目を逸らし続けてきたからこそ、抜け出したくても抜け出せずにいる枠の中にいまだ閉じこもっていることを知っている。
私はもう抜けるのだ。もっと広い世界に羽ばたくのだ。
だから、この情けない醜態をさらすことになったとしても、この醜い自分にちゃんと眼差しを届けてあげて、耳を傾けてあげようと思うのだ。
どんなに情けなくても、醜くても、苦しくても、辛くても、ちゃんとその出来事がそこにあるということに目を向けてあげよう。ちゃんと見てあげよう。存在を認めてあげよう。
さて私は、何を恐れているのだろう。その思い込みに気付いて、意識を向けてあげたいと思う。
ひとつめ。都合のいいように使われるだけ使われて、その後に捨てられる存在だと自分のことを思っている。踏み倒される、裏切られる、軽やかに切り捨てられる、そんな痛みだなぁ。
ふたつめ。自分の思うことをのびのびと言葉にして発信して、誰かに届けたいと思っているのに、格好つけて隠れている自分がいる。前に出て目立つと叩かれると思っている。お前なんて大したことないとバカにされると思っている。そんな痛みだなぁ。
そして気付いた。
その痛みを隠れ蓑にして言い訳している自分に。
悲しみに飲まれ落ちてしまえば 痛みを感じなくなるけど
とは、「炎(LiSA)」の歌詞だけれど、いや本当にそのまんまだよね。そこに飲まれてしまえば、楽なんだよね。
私ってかわいそう、ってピーピー泣いていればいいだけだから。
何も解決しないし、全然前に進んでないんだけどね。
自分を本当に大切にしたかったら、持っている力を発揮して表れていくことが必要なんだ。力を発揮しないのは怠惰だ。それは自分に対する侮辱でもある。
何があっても、何を言われても、痛くても辛くても、それでも立ち上がって力を活かしていくのが強さであり、本当に自分を大切にすることだ。
言うは易く行うは難し。
でもやるぞ。淡々とな。