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#9 強さとは弱さを認められること

人が恐れていることとは、実は自分の真の望みに気付いてしまうことかもしれない。

そんな出来事があった。


毎月開催される瞑想会(のようなもの)に参加しているのだが、その会の趣旨は「真の望みと繋がること」。

そこからどうするかとかはまず横に置いておいて、自分の真の望みと繋がった時に何を感じるのか?どんな感じがするのか?それを体感として味わうことで、日常の中で生かし実践していくと何が起こっていくのか?そんなことを興味をもってやってみる、ゆるくつながる心地の良い場だ。

その今年初めての回に参加して、冒頭のことに気付いたのだ。


私はこの回に半年ほど参加しているし、意識のワークなども数年続けてきているので、何かに意識を向けて感じていくこと自体は慣れていた”つもりだった”し、わかっていた”つもりだった”。

そう、”つもり”だったのだ。


真の望み、というのは、自分の内側にある。

それと繋がるためには、自分の内側に問いかけていく。自分は何を望んでいるのか?を。頭ではない、ハートに。そして肚に。

その時、望みを聞いているのに、それとはまったく違うものが浮上してきたりする。なんとも居心地の悪い感覚だったりもする。それをよく見ていくこと、そのまま感じていくことは、怖さを伴ったりもする。受け入れてしまうには、あまりにも心地悪いからだ。

そこで、逸らす。逃げるのだ。この心地悪さを感じたくないために、見て見ぬふりをするのだ。その先に、真の望みがあるにもかかわらず。


私はこのループをぐるぐると回っていたことに今回気付いた。

逃げていたのだ、逸らしていたのだ、真の望みに耳を傾けることから。


今回、瞑想をしている最中に逸らしている自分に気が付くことができた。

「どんな感覚が浮上してきたとしてもそれを感じることを自分に許していく」という言葉が急に聴こえてきたからだ。


心地悪くとも、その感覚にオープンでいること。心地悪さを感じていいと許すこと、そのまま感じ続けること。そこから逃げないこと。

しばらくそうしていると、涙が溢れてきた。

「ここにいるの!気付いて!」と叫ぶ、小さな私がそこにいた。

小さな私は叫び続けている。心が締め付けられて、目を逸らしたくなる、耳をふさぎたくなる。それでも、その感覚を感じていいと許し、見つめて耳を傾けてみる。

「誰が、なんと言ったって、どう思われたって、私はここにいるし、自分の言葉で伝えたい!感じていること、思っていることを素直に言葉にしたい!」

小さい私は、小さい身体を全体で、それこそ全身全霊で叫んでいる。

これを真の望みと言わずに、なんと呼ぶのだろうか。

望みって、もっとウキウキワクワクするものかと思っていたのかもしれない。けれど少なくとも今の私にとって、真の望みはこの叫びをそのまま抱きしめてあげることだ。まずは、抱きしめてあげることだ。

そう思ったのだ。

私は叫び続ける小さな自分の近くに行って、目を見てうなずいた。うんうん、そうなんだね。とっても素敵なことだね。そう言ってただ聴いていたら、次第に声が小さくなって落ち着いた。

今日も寒いね。こんなに可愛いコートとマフラー、ブーツがあるんだけれど、着てみる?と尋ねてみると小さくうなずく、小さな私。コートとマフラーとブーツを着せてあげて、モコモコになった小さな私は、ホッとして落ち着いたように見えた。そしてにっこりとほほ笑んでくれた。

私もホッとした。よかったなぁって、思った。


真の望みと繋がろうと思ったら、その道中にあることにも丸ごと目を向けていくことが大切だろうと思う。

痛いこと、しんどいことからも目を逸らさずに。

それが自分の弱さであるからこそ、その弱さがあるということを、そのまま受け入れてあげるということが。

そして、自分は弱いと知ることこそが、強さとなって立ち上がっていくのだろう。


強さとは、己の弱さを認められること。


そんなことにも真っ直ぐに在ろう。そう思う。








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