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私の気持ち。

ロッチャンが逝ってしまってから、自分の気持ちが痛い。どんどん自罰的な思考になって来ているのがまた不思議。タラレバの日記にも書いたけど、、、

でも、友人が救いになるような言葉をかけてくれて
どれだけ泣いたことか。言葉って、こんなに心に染みるものなんだ〜って実感した。言葉の力 ” 言霊 ” は存在すると思っていたけれど、ここまで実感したのは初めてのような気がする。
 バンクーバーに住む友人がいる。1年に1度も会えない、かれこれ多分4年会っていないはず(コロナ期はもちろん)
ずっと昔、20年ほど前にバイト先で出会ってからずっと付き合いがある
つまり、大好きな友達。本を出して欲しいくらい言葉での表現がいつも素敵。そんな友人が、今回もまた救いになる言葉をかけてくれた。

”ロッチャンはMの一部だったんだね。苦楽をともにして、いつもそばにいてくれた相棒だもんね。 Mがどれだけロッチャンを愛しているか知ってるから、今のMの欠落感を思うと、胸が締め付けられる。
悲しかったり寂しかったりする気持ちは、我慢できるものじゃない。
たくさんたくさん泣いて、ロッチャンに会いたいよーって、たくさん悲しんでいいよ。
時が癒してくれると言うけど、いくら時間が経っても昇華されない寂しさや切なさって、私はあると思う。けど、無理にその気持ちを押し込めることはしなくていいよね。 ロッチャンがくれたかけがえのない時間や、教えてくれた命の尊さ。そういう温かさに包まれた寂しさにきっとなっていくから。”


ロッチャンはみんなの優しいお兄さん


彼女が私にくれたメッセージ。私も自身がすぐに感じた欠落感を伝えていたし友人を悲しませたくないとか心配させたくないとか、そんな配慮もできないくらい私は真っ直ぐに悲しみをぶつけた。←今になって、、、

しっかり悲しんでいい、そしていくら時間が経っても寂しさや悲しみは変わらないかもしれないと、曖昧な慰めなどせず真っ直ぐに向いてくれた。
”一緒”という感じ。ありふれた慰めや聞き慣れた耳にタコの共感ワードじゃない。
彼女らしい。

そして、今は悲しみや寂しさが絶望感のような冷たさで痛いけど
ロッチャンがくれたかけがえのない時間や幸せな時間、教えてくれた命の尊さ、そういう温かさに包まれた寂しさにきっとなっていく。

私はロッチャンのお世話をしていたと思っていたけれど、
ロッチャンとの暮らしが、お世話が、私を支える柱だったんだ。
それは、依存的なものなんだと思う。正直いってそうだと思う。
でも、それくらい私はロッチャンを愛していたし
絶対幸せにするって思っていた。そしてロッチャンもそんな私とずっと一緒にいてくれると100000000000000%思い込んでいた。





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