こども達は、
ただただ、私たちを超えていく存在です。
そのようにできている、と今日の保育を終えて、
改めて実感しました。
彼らは知ってる、って思うのです。
大人の考え、思い、感情、そういったもの全てを、大人である我々以上に(自分自身が自分の事を知る以上に)子どもの持つ繊細なセンサーで知っています。分かってしまうという表現の方がより近いかもしれません。
どうしてか?
子どもは思考を通さず、この言葉を他の表現で言うと、
子どもはまだあまり知識がないので、フィルターがないためです。
そのものを、全身で感る、をしています。
全身が目になり、耳になり、受け取っています。
そうして感じたことを、
評価する、批判する、と言う事を一切しませんし、できません。
そういう感情や思考が、大多数の子どもにはありません。
ただ最近批判まではいきませんが、あれ?違うんじゃない、と言う感覚を言葉にできる子にごく稀に出会います。
虐待を受けても、それはただそのようになっている、
としか受け取れていない、と思います。
ただ違和感は感じていて、それを心の奥底に仕舞い込み、大人になってからあれはこういうことだった、と思い出す事があると思います。そしてその事をどう捉えるか、は個々人次第になります。
以前、アメリカで子ども達を助ける福祉の仕事をしている方の記事を読んだ事がありました。
その方は保護者が薬、アルコール依存症、虐待してしまうなど、子育てができない状態なので、子どもを親と離すために預かりに行くと、親と離れたくなくて泣き叫び、自分は子どもを助けようとしているのに悪い事をしているような気がしてくる、と言っていました。
側(はた)から見るとどんなにひどい事をされていても、子供にとっては親なんだと、その方は言っていました。
この記事を読んだ当時は、やはり子どもにとっては親は特別なんだな〜、
と思うぐらいだったのですが、子どもがそこまで生きてこられたのは親が世話をしてきたからで、深い部分で愛されている、を子どもは知っているんじゃないか?と思うようになりました。
そういう思いに至ったのは一冊の本がきっかけです。
下記は、稲葉俊郎さんの著書「いのちを呼びさますもの」からの一節です。
「、、人生の始まりは圧倒的に弱く脆い存在であり、誰かが食事を与えてくれて、排泄物の処理をしてくれないと生きる事を続けることすらできない。そうした記憶があろうとなかろうと、人間は必ず誰かの愛を受け、生き続ける事ができた。、、、、、(中略)。生きているだけで、生き残っていることに誰もが無条件に自信を持っていい。誰かの存在によって生き延びたという証なのだから。」(「第二章 心のはたらき」より抜粋)
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784877587734
もし、小さな赤ちゃんが大人のような感情と思考を持っていたら、彼らはやりきれない気持ちになって生きていけない気持ちになるかもしれません。
私たち人間は、なぜか段階を追って心と身体、頭が成長できるようにできている。
いつものように、話が逸れてしまった感が大いにあるのですが、
伝えたかったのは、
子どもは大人を見守ってくれている、
と保育士をする中で、
いつも感じるのです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
2011年に出会った、シュタイナー教育。 ストーンと心に落ちてきて、今も静かに光っています。子ども達やおとな達の心の灯りが輝き続けるような社会はきっと目の前にある。 様々な地で生まれた叡智と、先人達が残してくれた勇気と一緒に、歩きます!