Naegi立ち上げの原体験
少し自分のことについて書いてみたい。
2020年現在、私は青果物流通×ITの会社で働きながら、「デザインの力で農業の発展、そして地域社会の持続的発展に貢献する」というビジョンを掲げる、農業×デザインの会社、『Naegi』の立ち上げを行なっている。
ふと思えば大学2年生くらいから今まで農業のことしか考えていない。
学部は政治経済学部なのに、卒論は「コメの競争力強化へ向けて」という題名だったし、農業コンサル会社でインターンもしたし、長期休暇に農家を訪問したりもした。
社会人になって一社目は山形の農産物流通ベンチャーに入社、辛い思いもして、農業も嫌いになりかけたが、現在も本業でも農業、複業でも農業という選択をして生きている。
大学時代の仲がいい友達も「全然変わらんね」というくらいだから、本当に全然変わっていないんだと思う。
なんでそもそも俺は農業にこんなに心燃やしてるんだっけっていうのが自分でも不思議なので無理やり言語化してみたいと思う、冗長に。
中村の生い立ち
夏の日の1993年。青森の津軽弁とりんごが有名な地域でサラリーマン家庭の長男として生まれた。名前は洋雄とかいて”みお”と読む。
農業と関係がある部分といえば、母の祖父がりんご農家で小さい頃はよく、畑に連れて行ってもらっていたこと。
あとは、家の周りがりんごか水稲の畑だったことくらいだと思う。
自分の意思がとにかくない子供で、父や仲がいい友達から目の前にぶら下げられた選択肢に何も考えずに飛びついていた記憶がある。部活も仲のいい友達が、仮入部期間にバスケやると言い出したので、ついて行って、一週間後、やっぱ野球にすると行ったので、最終的には野球部に入った。
高校も父がここいけと行ったところに入った。
唯一逆らったのは大学で、両親は地元の大学に進学しろとうるさかったが、当時ハリーポッターのルーナラブグッド役の方と付き合いたいと思い一念発起。通訳者になりたいという夢を叶えるため、外大に行きたくて浪人までして結局学力が足りず明治大学に落ち着いた。
大学では英語勉強するぞと意気込んでいたが、iPhoneのSiriが日本語を英語に翻訳し始めたから、あー、俺いらないじゃんと思い諦めた。
大学に入ったら通訳者を目指す中村というアイデンティティでやっていこうと思っていたが、早々に挫折をしてしまい自分は何者なのかというクソ難しい問いと向き合い続けることになる。
人生の転機
とにかく自分が何かを探すために、せっかく大学にでもきたし、知識を得ようと思い、学内でもとにかく厳しいと言われていたゼミの門を叩いた。
ゼミでの勉強だったり、人との出会いがなければ今は全く違った人生になっていたと思う。
とにかく毎日日本経済新聞と本を読み、ゼミ生とディスカッションをしていた。
その頃出会った男がいた。
同じゼミに所属している人で、急に呼び出されて「お前、将来何がしたいの?」と得意げに聞いてきた。いわゆる意識高いやつ。
そいつが当時言っていたのは起業して孫さんを超えたいということだった。突飛な感じに聞こえるが、その当時はなんか目標あるやつかっこいいなと思ったし、何者なのか悩んでいた自分にとってはとても悔しかった。今思うと彼にあっていなかったら「起業」という選択肢は考えもしなかったと思う。
自分は社会に対して卒業後どんな価値を提供できるだろうかということを漠然と考え始めたのもこの頃だった。
地元と東京の境目で
大学2年生の後半頃、TPPが話題になっていた。
TPPの話題で大きく取り上げられていたのは、日本の農業への負の影響だった。
TPPによって農産物にかけられている関税が撤廃されれば輸入品の価格が下がり、補助金の温室で営まれている競争力の弱い日本の農家は価格競争に勝てず滅びてしまうということだった。
青森県出身でしかも農家の孫で、親友も農業者のわりには、この時期まで農業に対して全く興味がなかった。多分当たり前すぎたんだと思う。
この話題を聞いて真っ先に抱いたのが、「俺の地元大丈夫かな」という危機感だった。
そこから読む本の分野が、農業や地方創生を取り上げたものになっていき、いつの間にか農業・地方なんとかできないかなという想いに変わっていった。おそらく強烈に自分ゴトとして当時の中村は認識したんだと思う。
不思議なもので、自分ゴトになった瞬間から、人間は途轍もない行動変容を引き起こす。
結局、大学時代の中村が色々動き回って出した結論が以下である。
この結論に至り、中村が考えたのは「市場に代わる新たな流通の仕組みを作る」ことだった。
さて、やらないといけないことはわかった。ただ、実際の農業現場に無知すぎたので、とりあえず似たような思想で事業を行なっている会社に入ろうと思い見つけたのが、山形の青果物流通ベンチャーである。
社会人1社目での壮大な挫折
2017年春。山形にて社会人の一歩を踏み出すも、9月には東京へ戻った。わずか半年で新卒ブランド喪失。
一番の原因はパワハラによる精神面の問題が発症したことだが、おそらく、プツンと心の糸が切れる原因となったのは、当時所属していた会社のビジネスモデルに限界を感じたからだと思う。
山形のベンチャーは、人と人との繋がりにおいてしかなり得ないビジネスモデルだった。社長との仲が悪くなれば農産物を出してくれなくなることもあるし、社長が出会う人以上の生産者との付き合いが生まれる余地はなかったので、天井も見えていた。
もちろん人と人との繋がりが仕事においてもっとも重要なのは承知しているが、それは仕組みにおいてではない。
仕組みってこういうことじゃないな、人への共感ではなく、仕組み自体に共感が生まれるようなものじゃなければ既存の流通に取って代わるものはできない。
この事実に気がついた瞬間、ぷつっと音がして、業務中なぜか涙が出てきた。大泣き。大の大人が人前で泣くというのはただごとじゃない。その場でやめることを伝えた。
当時に、農産物流通が会社としての利益を確保する上でこれほど辛い業界だとは恥ずかしながら思っていなかった。
生産者と販売先の間に入る企業の収入源は右から左へ流す際に徴収する手数料である。手数料が会社の売上の企業において一番肝になるのは物量である。また、運賃も重要で、物量と運送コストを最適化しないと利益が残らない。損益分岐点を超えるまでに生半可な資金力では太刀打ちできないのが現実である。
2017年9月に辞表を出して、すぐに東京にもどり、とりあえず超ホワイトなシステム会社にトントン拍子で入社が決まった。今思うと心を休めるのには十分な環境だったとおもう。年収は額面で240万円で生活も本当に苦しかったけど、周囲の支えてくれる人たちに恵まれて、徐々に自分を取り戻していき、地方とか農業への野心を取り戻すまでにはそう時間はかからなかった。
なぜ農業×デザインなのか?
なぜ今、農業専門のデザイン会社を立ち上げようと思ったのか。それは今、農業にデザインが必要だと直感的に感じだからである(笑)
山形での経験もあり、農産物流通の世界でのビジネス、特に生産者と販売先との間に入るビジネスは難しすぎるなと感じていた。だが、なんとか生産者の手取りを増やしたいと思っていたので、あくまでもそこにこだわったビジネスはなんだろうということをずっと考えていてた。
行き着いた先がデザインによる生産者のエンパワメントである。
自分が社会人になって3年ほどだが、ものすごいスピードで消費者に対して、販売元の規模に関わらずにモノを販売できる環境が整っていった。
実際に足を動かすような営業をしなくても、ツイッターとインスタグラムを使えばブランディングが可能で、ホームページもサーバーを立てず、プログラミングができなくても月額2,000円くらいあれば作成できる。
農業界では、ポケマルや食べ直が誕生し、消費者に想いや言葉をのせて生産物を販売できる。
3年前に比べると夢のような環境であることは間違いないのだが、反対に生産者が他の生産者と直接対決をしなければいけなくなったという難しさがある。
どんなに美味しいものを栽培しても、見せ方や売り方がうまくなければウェブの世界では勝てない。サムネイル一つとっても、白色電灯に照らされた特に特徴がないテーブルに雑多に野菜が並んでいる写真よりは、おしゃれな背景に整然と並べられた野菜が佇んでいる写真の方がクリック数が上がるのは当然のことである。
会社のホームページでも、10年くらい前に作ったような、ダサいホームページよりは、綺麗な写真とコピーライティングがあるホームページの方が、見る人が生産者に抱くイメージも変わってくる。
ではこのようなクリエイティブな作業を生産者の方々が日々の農作業をやる中でできるのかというと、そう簡単にできるとは思えない。
生産者の方は本当にやることが多い。農業の川上の現場のリアルさがよくわかる書籍があるので気になる方はチェックしてみて欲しい。
クリエイティブなデザイン的な要素を任せられる会社、言うなれば生産者のデザイン部門みたいな会社があれば、生産者の手取りをあげるサポートをできるのではないかと思い、現在、数名のメンバーと共に実験的にクライアントワークを行い、ビジネスモデルを日々考えている。
まだ、この先どうなるかは神のみぞ知る世界ではあるが、しっかりと目の前の生産者と向き合いながら、事業を拡大させていき、「デザインの力で農業の発展、そして地域社会の持続的発展に貢献する」というビジョンの達成ができるよう努力していければと思う。
P.S.
2021年5月20日青森県藤崎町に株式会社Naegiが誕生しました。https://naegi-design.com/
デザイン を通して、青森という地から経済的な循環を生み出せるような仕組みを作っていけるよう努力していきます。