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【 神さまと対話する場所?! 】 2013年記

もうずいぶん前の事。

神様がたとおしゃべりする時は大体、自宅に遊びに来てくれるので、おしゃべりするけど「伺いたい」とか。

「お叱りを受ける」とか。

そういう時は大抵、神社やお寺や、パワースポット的な場所やその時に神様が鎮座する場所へ呼ばれるんだけど。

呼ばれた場所でお話を聞きながら紙に書いたり、石を通して聞き取りが上手に出来ているか伝え漏れがないか確認したり。

そうやって時間を過ごす。

そこの神社は顔見知りや仲良く話す人も働いていてよく通っていたんだよね。

でもある日、偉い人?に怒られた。

「拝みが終わったら帰って下さい。」って。

「まだお話を聞いてます。」って言ったら「お話?意味がわからない、誰の?」
「神さまです。」「神さまの話を聞く場所じゃなくて拝んで帰る場所だ。」「一方的に拝むだけですか?」「当たり前だろ!」「神さまに呼ばれたんですけど…」
「神さまに呼ばれた?そういうのは他所でやれ、ここはそういう場所じゃない!」「え、神さまとお話する時はどうするんですか?」「そんなこと知らん。私は聞こえない。神さまに聞けばいい。」「どこで?」「知るか、とにかくここは拝んで帰る場所だ。」というやり取りをしました。

神社やお寺での偉い人は能力をいただかなくても偉くなれるのかな、とか。商売として以外の考えを持っていないのかな、とか、悲しくなった出来事でした。

別の神社では、神さまが祀られている場所に何の神さまがいるのか訪ねたら「わかりません」と言われました。

では何故働いているのか?聞きたかったけどやめました。

こういう神さまに呼ばれたんですが、と伝えても、本堂の鏡に向かって拝めば通じます、しか言いませんでした。

神社やお寺でさえ、人が働いて経営する人の心次第では神さまが鎮座する事の出来ない空間になります。

神さまが鎮座しなくても信じて拝んで救われる人もいる。

宗教もそうです。

神さまがたの言葉が伝言ゲームみたいに変わっていく事も多い。

でも、救われる人もいる。

だから、全てが悪い、とは思えないんです。

人を救う手段として正しい時もある。

ただ、真実を伝えた時に首をかしげたり、立ち止まって考えてみたりするゆとりも筆頭に立つ立場の方なら見せて欲しいな、と思う。

全否定から入る人、盲信している人、洗脳されたがっている人、、には、魅力を感じません。

どの宗教でも、スピリチュアルな世界でも教えはひとつなはず。

自分の与えられた命を充分に生きる、事こそが真実なのではないかな、と。

お腹から笑い、心から感動し無い不安や恐怖に怯えるよりある喜びやワクワクに生きる。

あたしは、そういう気持ちを伝えたいから、自分自身がまずは、実践して幸せを感じながら働きたいし、生きていたい。

ちなみに、今日気になった記事に。マヤ暦についての未来を不安に導くような記事がありました。

けど、それは100%無いです。

マヤ暦関連は無事に行われて終了しているので、大丈夫。

日本って、地球って、かなり頑丈なんです。

そうである為の日々の努力もたくさん、あるんです。

だから、心配無いからね。

森羅万象LOVE!みおきな

自分を幸せにする覚悟・判断・責任を土台にしてもっと生きやすく活きる事が出来たら。そう願っています。