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【創作】アダージョ 高校生編 第9話
お爺ちゃんが家元を引退することになった。
「そんな急に。こんなキリの悪い時ではなく、せめて年度末まで待ったらいかがですか」
「まあそう言うな、凪。これ以上老体に鞭を打たんでもよかろう。実はすぺしゃるな旅行に誘われてな、今引退しないと間に合わないのだ」
「また勝手なことを」
お母さんは頭を抱えた。
「老兵は死なず、消え去るのみ。あとは凪に任せよう。事実上、今や事務方は全て晃輝君に任せているし、私は引退後も演奏会も出て稽古もつける予定だから、あまり変わらんよ」
「それじゃ引退する意味がないじゃないですか。」
「何を言うか凪。対外的には大きく変化するだろう。私が惚ける前にお前に譲っておかないと、凪が泣きついて来ても助言出来ないからな。翠、旭、川崎流を頼んだぞ」
「また翠と旭にプレッシャーをかけるのは止めてください」
「お前は甘すぎるんだ、凪。この血を受け継いだ者なら、自由だの何だの言う前に、しっかり責を果たさねばならん」
それからは酸素が薄くなってしまったような、怒涛のような日々だった。急な話だったから、お母さんの家元就任披露パーティーの準備も突貫工事で進め、テレビや新聞などの取材が山のように舞い込み、それがようやく終わったかと思ったら、関係各方面への挨拶行脚に私も駆り出されることになった。
挨拶回りは大抵が山野流など箏の別の流派で、全国各地に散らばる各本家に伺って挨拶して回るのは恐ろしく大変だったけど、お父さんもお母さんも和かな笑みを崩さず訪問し続けていた。
「本当は各流派の方々もお呼びしてパーティーをしたから、ここまでしなくても良いとも思うけどね、急だったから来られない方も少なくなかったの。それに、川崎流は売り方が派手だから、こちらからお伺いを立てて関係を強固にしておく必要があると思うの」
「そうだな。そういう一歩一歩が、後で強い力になるんだ」
お母さんが新幹線で言ったことばに、お父さんも心から、というように同意した。
「好感度がないと派手なところしか見られないけれど、礼節を持っていれば、演奏の水準までちゃんと認めてもらえるから」
そう言ったお母さんの言う通り、私たちは何処に行っても歓迎された。川崎流のお陰で箏界が盛り上がった、という台詞が常套句で、私は旭と共に、末席でそれを誇らしく聞いていた。
うんざりするような挨拶回りも終盤に差し掛かった頃だった。お母さんがまるで戦争でも始まるような真面目な顔で警告した。
「今度の水澤流は気をつけて。何を言われても決して怒ったり、態度に出したりしたら駄目。約束して」
「女子の家元さんとは、川崎流さんも大した流派ですな。元はと言えば先代さんが妾を作るなりして、頑張って男を拵えないから、こういうことになるんですわ」
本家というには敷地は立派でも、手入れの行き届かない風貌だ。庭にはところどころに雑草が生え、枯れた木がそのままにしてあった。お茶室に案内されてくたびれた座布団に座るなり、水澤流の家元である皺の寄ったおじさんが、とんでもないことを口にした。
「まあそれでも当代さんには男の子がいらして、良かったじゃないの。この代だけ我慢すれば、男の子に継げますでしょう」
奥様が嗜めるのかと思いきや同調されたから、唖然としてしまう。奥様はお抹茶の茶碗を置いてくださるついでに、私をジロジロと観察した。
「それにしても、いつも新当代さんの金魚のフンのように付き纏っているあの美丈夫さんが種なのかと思っておりましたがね、違うようですな。息子さんはそちらの旦那様に似ていらっしゃいますし、娘さんは、まあ何だ、当代さんにはよく似ているが、旦那様やあの美丈夫さんの艶やかさはまるで無いですな。他にも種がいらっしゃるのかな」
「あら、私はこちらのお嬢様の演奏を聴きましたけどね、当代さんと山田さんを掛け合わせたような演奏をなさいますわね。やはり山田さんのお子さんなんじゃございませんこと、運悪く似なかったようですがね」
な、な、な、なんて事を!私は思わずお茶をぶっかけそうになったけど、先に旭が立ち上がってキレそうだったので慌てて制止した。旭は小6にして既に私の背を超えていて、お父さんのように筋肉質だ。暴れ出したらとんでもないことになる。
「まあ、川崎流さんは派手なことが好きでいらっしゃるから。山田さんも写真集や広告まで出られていましたわね。若い頃は髪も青くて仰天しましたわ」
私は両手をぎゅっと握りしめて怒りを何とか抑えつつ、旭がキレないように見張っていた。
「うちの山田のことをよくご存知でいらっしゃる」
お茶碗を手に持ち、落ち着き払った物言いで話し始めたのは、お父さんだった。
「山田の髪が青かったのは、我々の結婚前の話ですがね。山田は若い女性にもマダムにも人気がありますので、奥様にもさぞお引き立て頂いていると存じ、頭が下がる思いです。翠の演奏の聴き分けまで可能とは、相当でいらっしゃる。山田のプロマイドでも、次回お持ち致しましょうか。それとも、顔写真つきのラメ入りうちわの方がよろしいかな」
奥様の顔が一瞬物欲し気になったけど、非難めいた家元の視線に気づいて姿勢を正された。
「ま、まあ、川崎流さんはよくお目立ちでいらっしゃるから。国内を蔑ろにされて、海外にばかりいらっしゃっていますし」
「失礼ですが水澤流さんの昨年度の演奏会数は、4回でいらっしゃいましたね。どちらで行なったんでしたか。我が流派は国内のみでそれをゆうに超えております。具体的には、申し上げない方がよろしいかもしれませんね。さぞ、1回の演奏会を大切になさっているのかと心を馳せれば、尊敬に値致します」
ざまあみろ。うちのお父さんに勝てる人なんて、見たことがない。
「あんな子どもみたいな嫌味を言われるなんて、思ってもみなかったよ」
小6の旭が子どもみたいなんて言うから、笑えてしまう。
「水澤流は存亡の危機だから、悔しいんだろう。伝統にしがみついて新しい風を入れて来なかった結果がこれだ。よく覚えておくがいい」
「いつも思うけど、本当に残念。歴史の長い流派なのに」
帰り道、お父さんと旭は2人で先を歩き出した。私はお母さんに聞いてみる。
「私の演奏は、優先生に似てるの?お母さんに近いと思っていたけど」
「そりゃあ似てるよ。確かに優先生は、元から翠が持っている音を大切に育ててくれる人だけど、あれだけ一緒にいて似ないわけがない。音もそうだけど、箏への執念も似てる」
「執念?」
「そう。優先生は私の弟子だったけど、あの熱心さは、私が優先生に教わったことでもあるの。昴先生もそうだけど、優先生は、今の翠よりずっと大人になってから箏を始めたでしょう。それでたった数年で師範まで登り詰めたの。稽古のない日でも稽古場に通い続けてね」
穏やかな優先生に執念という形容は不思議な感じ。私は優先生の澄んだ笑顔を思い出しながら聞いた。
「翠、元の音を大切にするのは大事だけど、若いうちは周囲からもいろいろ取り入れてね。水澤流のように、伝統は継ぐだけでは廃れてしまうから、貴女の中に流れる血はそのままに、せっかく良い先生に師事しているんだから。優先生からだけじゃなくてね、これからはいろんな人から、他の流派からも、もっと意識して、聴いて、見て、盗んで」
「意識して?」
「そう。この世界では、伝統と新しい風のバランスを取れる者だけが、生き残れるんだと思うの」
ふと川崎流に風を入れ続けている、旭と前を歩いているお父さんが目に入った。
「それは、お父さんからも?」
「ふふ。お父さんは激しい人だから、あれを取り入れようとするのは大変だったよ。劇薬でも飲んだようで死んでしまうかと思ったの。だけど、あの機会がなかったら、今の私は存在しないかな」
お母さんはそう言って、過去の世界に行ってしまったような顔で嬉しそうに微笑んだ。
「本当は優成くんにはもっと弟子を取って欲しいんだけど、本業が忙しいから仕方ないね。本業が、優先生の演奏の魅力を作っていることでもあるから」
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雨の多い、梅雨らしい梅雨が月を跨いで長引いている。しとしとが続いて涼しく過ごしやすい。細かいことの先が見えて来て、凪先生の家元就任の煽りを受けて忙しかった翠もひと段落した今日、学校の帰りに翠に来てもらった。
「奏真の家でジュースが出るの、珍しいね」
リビングのソファーにちょんと座った翠にグラスを手渡す。
「うん、翠が来るから買っておいた。ウィーンを思い出すだろ」
翠はアルコール色をした濃厚な葡萄ジュースをひと口飲んで、笑顔を見せる。
「それで、話って何」
翠は緊張した面持ちで身体に力が入っている。緊張するのは俺の方だ。
「うん。俺、進路を決めたんだ。親に了解を貰って、行きたい大学も」
「そっか。進むべき道が見えたのは、幸せなことだね」
「そうだね」
そう言って俺はひと息つく。大丈夫だ、翠ならきっと分かってくれる。
「翠、俺、イギリスの大学へ進学しようと思う」
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