【創作】アダージョ 高校生編 第7話
東京にしては珍しく、雪がうっすらと積もっている。私の演奏を聴き終えた優先生は、何処か遠くを見るようにしてから微笑んだ。
「演奏がますます凪先生に似て来たね、翠。さすが親子だ」
「本当ですか」
お母さんは箏界では「神の領域」と形容されるほどの、優れた腕前を持つ人だ。その能力は本流の山野流からも一目置かれている。そんなお母さんに似て来たなんて、飛び上がって喜びたいくらいだ。
「うん。俺は凪先生の演奏が変わるのを、間近で聴いて来た。ちょうど今の翠みたいだったよ」
「お母さんの演奏が?」
「そう。凪先生が晃輝先生と仲良くなった頃だった。......昔話をするなんて、俺もオッサンだね。翠、奏真と何かあったね?」
言われて身体中が、指の先端まで熱くなる。全て優先生に見透かされている。
奏真の恋人になって半年ほど経ったこの間、私は奏真と身体を重ねた。耳が切れてしまうような寒い日だったけど、奏真の身体はやけに熱かった。私はそんなことしたことなかったし、大した身体でもないし、あんなに恥ずかしくて自信を無くすことなんて今までもこれからもきっと無いほどで、自分がまるで埃のようにちっぽけで行き場の定まらない存在になったようで、情けないけど滅茶苦茶だった。
だけど奏真は優しいままで、終わった後も幻滅したりしないで、今でも側にいてくれる。それがとても嬉しくて、感じたことのないような幸せをもたらしてくれて、自分の中に収まりきれなくて演奏に出てしまったんだろう。
「別に俺は怒ったりしていないよ。恋愛は人生にも演奏にも深みをもたらしてくれるし、自然なことだ。ただ、何かあった時に困るのは、翠、女の子の君だ。翠も奏真もまだ高校生だから、それだけは決して忘れないように」
「はい」
私は何とか返事をしたけれど、羞恥で身体中が熱くなって、優先生のことが見れなかった。恋人の実のお父さんにこんなことを言われて、どういう顔をしたらいいんだろう。
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「ウィーンの演奏会でね、『龍歌』を弾いてみない?」
稽古が終わり、凪先生が抹茶と鶯の形の練り切りを出してくれて言った。大晴は今年に入ってから、稽古を隔週に変更している。
「『龍歌』を?俺がですか?」
凪先生は鶯を上品かつ容赦なく、首から黒文字で切り分けた。
「そう。『龍歌』はウィーンでも人気があって、奏真くんが来るのにどうして『龍歌』の「タイセー」が来ないんだ、って話があるくらいなの。
それで、大晴くんには悪いけど、龍歌をやろうと思って」
「それで、俺は第一箏ですか、ニ箏ですか」
「どっちも」
「は?」
先生は俺の反応を見て楽しむために、情報を小出しにしているようだ。
「ウィーンで熱心なお客様は、3日連続とか、午前午後両方来られる方もいらっしゃるみたいなの。だから、回によって、第一箏もニ箏も入れ替えてやるの。どう?」
「相手は誰ですか」
抹茶碗を掌に乗せ、回しながら訊く。
「翠と、優先生と、私」
「は?」
俺の反応にいちいち嬉しそうになりつつ、先生は脇に置いてあった手書きのメモを差し出した。
「こんな感じでやりたいの」
「凪先生、ニ箏弾けるんですか」
一旦茶碗を畳に置き、メモを見て言った俺の反応に、先生はむくれた。
「第一声がそれ?失礼だなぁ。一応私、これでも次代家元なんだけど」
「すみません、第一箏のイメージが強くて」
「私も優先生も、どっちも弾けるよ。伊達に歳取ってないからね」
俺は再度メモを見返した。
「翠も一箏を?」
2日目の午後、翠は凪先生のニ箏との合奏と書いてある。
「うん。翠はもう、一箏も弾ける。奏真くん、翠に何かしたでしょう」
「......はい?」
「単刀直入に聞くね。翠を抱いたでしょう」
「え、......えっと」
どう答えて良いのか分からず、俺はことばを詰まらせた。
「やっぱりね。あの子の演奏が急に変わったから」
「すみません俺、でも、翠のことは真剣で」
「うん、別に怒ってないよ」
お茶飲んで、という仕草を先生にされて、美味しいはずなのに緊張で味が分からなくなった抹茶を飲み干した。
「......演奏が、変わったんですか」
「うん、最初に気づいたのは優先生。一度聴いてみてくれって呼ばれて、あまりに甘くなってるからびっくりしたよ」
「父さんが」
何もかもお見通しって訳か。
「先生俺、本当に翠のことが好きなんです。決して軽い気持ちで、そういう、ことを、したんじゃなくて」
しどろもどろになって何とか話すけど、全てが使い古された安っぽいことばのように感じてしまう。
「うん、知ってる。大丈夫だと思うけど、念のため言わせて。ちゃんと避妊して、衛生環境に気をつけてね。2人は高校生だし、翠の身体もまだ成長途中で、何かあったら困るのは翠だから」
「分かっているつもりですが、気をつけます」
それは、俺が翠を抱くことを親として了承した、という意味なんだろうか。全身が熱くなってくる。
「うん。約束して」
凪先生はそう言って優しく微笑んだ。
「あと、奏真くんは、第一箏は心配していないけど、ニ箏も大丈夫でしょう?」
俺は姿勢を正し、真面目に答えた。
「はい。出来ると思います」
「そうだよね。何か深刻に悩んでる顔してるから」
「そこまで分かるんですか」
「小さい頃から見て来てるからね。若者は、悩め悩め」
実際、漠然と考えていることがある。だけどそれを実行すべきかどうか、まだ決心がつかないでいる。恐ろしい考えだ。同時にそうしなくては、という思いもある。
「毎度思うが、神経に触るな」
第一箏に座る父さんと第ニ箏の凪先生の姿を見て、隣にいる晃輝先生が呟いた。
「晃輝先生も不安ですか、凪先生と父さんが入れ替わると。俺はどうも、目が慣れません」
常に凪先生を支えるように控えている父さんが、第一箏として上座にいる。こんな龍歌は珍しくて、稽古場にギャラリーが集まって来ている。
「いや、それについては全く心配していない。2人の演奏の相性が良いのは、何も今に始まったことじゃない。嫉妬に苦しめられるほど息の合う、寄り添った音だ」
「でも、父さんは母さんに一途で、凪先生は晃輝先生にベタ惚れでしょう?」
そう言うと晃輝先生は薄ら赤くなり、俺の頭を軽く押した。
「大人を揶揄うんじゃない」
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お母さんの第一箏と、優先生の第ニ箏。川崎流の「龍歌」を確立させ、その名を轟かせた2人が、ポジションを入れ替えるというから、かなりの数の門下生が集まってきていた。
「ふふ。優成くんの音をこっちから聴くのは、なんか変な感じだね」
「俺もです。大いに楽しめそうですね。準備が出来たら教えて下さい」
「はい」
お母さんと、優先生の顔が変わる。この瞬間が好きだ。普段優しくて少し変なお母さんが、箏を前にして「神の領域」へと向かう。これが厳かで距離感のある神聖なものに感じ、憧れ続けて箏の道へ進もうと決心したんだ。
「優成くん、どうぞ」
「はい、それじゃ、始めます」
優先生が第一箏というのは、変な感じ。音を奏で始めた優先生の龍は、強いのに優しい。お母さんのように透明でもなく、大晴のように雄々しくもない。
優先生は職業演奏家になることを選ばなかったから、忙しくて私と旭しか弟子を取らない。つまり私は優先生の、今のところ永遠にたった2人の弟子のうちの一番弟子ということになる。それが私には誇らしくもあり、独占欲を満足させ続けることでもある。
だって、この演奏を聴いたら、世界中の誰もが優先生の音に惚れるに違いない。ニ箏の優先生もアンニュイで素敵だけど、この中盤。なんて艶かしいんだろう。優しくて、強くて、甘い。お父さんのバイオリン演奏も色気があるけれど、それとはまた違う、桜色の甘さ。
どうしてこの音を引き継げなかったんだろうと、少し恨めしくも思う。先生は私の中にある音を引き出して大切に育てる人だから、私は優先生の音を継がなかった。優先生はまるで自分が透明な存在のように私を教え、私は内に持っているお母さんの音に近い演奏をするようになった。
お母さんに音が近いと言われるのは、最大の賛辞だ。これがきっと最適解なんだろうけど、優先生のあまりに素敵な音が、一代で終わってしまうのは勿体無い。優先生に師事して長い時間を共に過ごして来ている私に、音は継がなかったとしても、演奏の何かか、佇まいか、このあまりに美しい人の一部は継がれているのだろうか。
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不思議だ。父さんが第ニ箏の時、ニ箏の龍は一箏の龍を追いかけているように聴こえる。だけど、父さんが一箏だと、一箏の龍とニ箏の龍は、お互いが近くにいながら別の方を向いている。大晴と翠の龍もそうだ。時に背で支え合いつつ、他の大切なものを求めている。
震えてしまいそうなニ箏だ。凪先生のニ箏は、翠ほどの脆さはなくても、神が壊されていくような感覚だ。天界から地獄に堕ちて、長い間もがいている。必死に手を伸ばして何かを掴もうとしては、失敗して堕ちる。もうやめてと言いたくなるほど、何度も何度も堕ちては傷つき、また昇る。
隣が少し動いたように感じて目をやると、晃輝先生が眉根を寄せて辛そうに聴いていた。動じない人なのに珍しい。ふと、晃輝先生の生き様を想う。凪先生を支えるように大手楽器店を辞め、川崎流の裏方に入り、それを繁栄させるために邁進している晃輝先生。晃輝先生の影響で凪先生が幸せになったことは、一体どれだけあるんだろう。
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