岡本幸緒歌集『ちいさな襟』を読んで
日比谷線神谷町駅午前九時なだらかな坂のぼりてゆけり /岡本幸緒『ちいさな襟』「ちいさな襟」
ちょうど先日、日比谷線を使って神谷町駅に降り立ったところだった。神谷町駅周りの坂はゆるく長く続いて、例えばそのうちの一つの坂を登った先にあるオークラプレステ―ジタワーの正面エントランスは、一階ではなく五階に位置している。自然と人工物のバランスがとてもよい綺麗な道で、感覚的にも大変な勾配というわけではなかったのに、知らない間にこんなにも高いところまで登っていたのかと本当にびっくりしたものだった。神谷町駅から登れる坂で吸い込む「午前九時」の冷たくて澄んだ空気は、きっととても心地がよいものだろう。
岡本幸緒さんによる歌集『ちいさな襟』は、青磁社から出版された第二歌集。光沢感のある布地に赤色の栞紐が映えていて、眺めていると心が落ち着いてくるような美しさがある装丁だ。日常の一部分についてきっちり輪郭を残しつつ取り出されたうえで、読者に穏やかに語りかけてくれる丁寧さが魅力的である。
とっぷりと秋になりたり真昼間に喉のかわかぬ時間が過ぎる /岡本幸緒『ちいさな襟』「あたたかき秋」
最近の日本は【極端に暑い夏/極端に寒い冬】というような気候で、秋という季節を肌で感じることはなかなか難しい。それ故に秋という季節は大切に考えていたいものであり、秋への導入を「とっぷりと」と表現しているこの歌には、読者であるわたしたちの心を委ねたくなるような感じがある。
詠み慣れぬ新聞歌壇を読んでみる旅のひとつの楽しみとして /岡本幸緒『ちいさな襟』「U字の磁石」
糸か虫か分からぬ黒き物体へ人差し指をちかづけてゆく /岡本幸緒『ちいさな襟』「福島の桃」
特別感が際立つ前者と、日常感が際立つ後者である。旅をしていると、新聞が宿泊先に置いてあったり道中暇だったりして、普段読まない新聞社の記事についてもじっくり読むことができる。旅をせずとも新聞を読むことは可能ではあるけれども、このように現実と少しの距離を置きながら読むことができる旅の途中の新聞こそ楽しいものである。また、後者の歌について、指の選択として「人差し指」に強い共感がある。中指から小指が手のひら側に少し縮こまっているところまで頭の中で再現された。
どちらからあなたはやってくるのだろう橋の真中で日傘をまわす /岡本幸緒『ちいさな襟』「常設展」
ああなんてきれいと雪にふれるのはいつかはやむと信じているから /岡本幸緒『ちいさな襟』「テイクアウト」
繊細な背景事情のもとで感情や人が行き交う様子が美しい二首。前者の歌で象徴的に描かれている「日傘」は、現実の太陽の眩しさだけでなく跳ね上がる心までも映し出していた。後者の歌は表記上でも描写上でも「雪」が際立って美しい願いの歌である。
奥行きの深さにしばし立ち尽くす本屋が閉じて更地になりて /岡本幸緒『ちいさな襟』「黒いうさぎ」
この「奥行き」には、本屋の建物としての奥行き感だけでなく、そこに並んでいるだろう本棚の奥行き感も強く想像された。「奥行き」と書かれているだけでなく「奥行きの深さ」とあることで、本屋が突然更地になっている事実に対して飲み込まれるような感覚があったと予想できる。
もう少しここでぼんやりしていたい遮断機ゆっくりあがりはじめる /岡本幸緒『ちいさな襟』「藍が流れる」
主体のゆったりとした時間の流れをこちらにも共有してくれているような穏やかな歌が並んでおり、読了後にはしっとりとした平和な世界が目の前に広がっているような印象があった。花山周子さんの装丁、花山多佳子さんの帯文もとても素敵で、何度も手に取って読みたくなる一冊である。
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