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終わりに近づけば近づくほどに、世界は輝いていく


ヨガ出勤、月、火、水と今日まで3連勤を終えました。
改めて「毎日どこかに出勤する」という生活をとても新鮮に感じている(出勤ではないけども)。
明日は午後からSEVENTEENの東京ドームコンで、バタつきそうという理由でスタジオ出勤はむつかしそうなので、オンラインで朝にさくっとやることにしようかな。

ここのところ東京では一気に樹々が色づいてきて、普段の通り道にたくさんのいちょうの葉が落ちて、見上げると金色に輝いている。天気がいいからか、ほんとうにキラキラときれいで、見上げて眺めていた。
もう、この通り道なんて十年以上とおっている。
けれども今年の、今の、見上げるいちょう並木がなんだかこれまでの人生の中でいちばん輝いて見える。

なぜかな、と思って、わたしがおだやかで幸せでいるからかもな、とも思ったし、だんだんと「死」というか、「終わり」が近づいてきているからかもしれないと思ったりした。

いつか人生が終わるときに、なにかを食べたとしたらそれは「ああ」と思いながら咀嚼し味わうだろう。いつか人生が終わるとき、最後にお水を飲んだとしたら、なんともいえない気持ちで飲むだろう。
太極拳の先生が言っていた、「これから踏み出すこの一歩が、人生で最後の一歩だとしたら?」という問いのように、最期にはきっとなにもかもがなつかしく、愛おしいだろう。

わたしの毎日はおだやかに楽しくつづいている。
そして、ぐんぐんと最後へと近づいている。近づけば近づくほどに、世界は輝いていくだろう。今日見上げたいちょう並木のように。

おっとヨガの話。
そう、わたしが通っている学校は1レッスン90分という枠になっている。けれどもどの先生たちも(わりと人生の先輩方という感じのみなさま)、さらにゆっくりと100分とかそれくらいの時間をかけてレッスンをしてくれる。

そのレッスンを毎日受けてみて、これまで本や動画でやった気になっていたヨガはやっぱり「インスタント」というべきものだったのだな、と思った。
いまのこの世界で、現代で、だれかの注意を引きたいと思ったのならインスタントであることはもう、必須といっていい。

30分間のヨガだって長い。15分ならなおいい。10分ならもっと。なになに、5分で全身が整うって?じゃあそれだ!ってなっちゃう流れをもうだれも止められない。

かろうじてnoteがこうしてわずかながらも読まれているのは、1000字程度だったら数分でさっと読めてしまう、まあまあインスタントなメディアだからでもある(それでもSNSよりフォーカスを必要としますけど)。

それなのに毎日ヨガマット持って通って、100分間じっくり自分のからだに意識を向けて、曲げたり伸ばしたりゆらしたりほぐしたりして、動きのひとつひとつをじっくりとていねいに観察していく。
毎日ちがうから毎日観てあげる。
こういう動き!という理想に自分を近づけていこうとするのではなく、ただ正直に今の自分に起きていることだけを観ていく。

あれ、これ、なにかに似てるな、と思ったら、なんのことはない。
わたしが毎朝やっていて、そしてライフワークでもあるライティング・ライフ・プロジェクトの中でもやり続けている「モーニング・ページ」とまったく同じことだった。

そう思ったらうれしくなった。
わたしは言葉を使って自分を観るということにとても興味があって、そこから不変の本質を見出せると思っていて、ヨガはそれを身体を使ってやっているのだった。
やってみてよかった。始めてみてよかった。まだまだ知らないことがたくさんあることがうれしい。



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