集客恐怖症という永遠の病
どうやらひとから見たらわたしはずいぶんと「いい感じ」に見えるらしい。といってもわたしが日常的に関わる”ひと”って、コンサルやコーチングのクライアントたちなので、必然的に”いい感じバイアス”がかかっている関係性なので、そこは多少さっぴくとしても、だ。
「なにかを確立している」っぽく見えるみたいだし、
「なにか上手くいっている」っぽく見えるみたいだし、
「アカデミックすぎずスピリチュアルすぎず、ちょうどいいバランス感」っぽく見えるみたいだし、
「自分軸を持っている」っぽく見えるみたいだし、
「やりたいことを自由にやっている」っぽく見える、みたいだ。
この、”っぽく見える”というのは非常に重要で、つまりはこれがブランディングというものだったりするのだけれども、これがまた不思議なものでなんとかそう見せよう見せようとしていても、そこに嘘があればちゃんとひとには「嘘のにおい」がぷうんと漂ってしまうらしい。
なので、わたしはおそらく「ある程度」までは、”っぽく見える”の中身を体現していなくもないのだろうと思う。回りくどすぎてなにを言っているのかわからないところ、それもまた世界観としてしまうところも含めて。
でもね、誤解を恐れずにいえば、みんな他人を勝手に上に見過ぎなんだと思う。どういうロジックかわからないけども「わたしにはできない、けどあの人にはできている」みたいに思いすぎているように思う。
わたしは自分のことを「集客恐怖症」だと知っている。「PV閲覧恐怖症」だと知っている。「noteスキ数確認恐怖症」だと知っている。
逆にわたしのことを「できていていいな」と見ている人は、知らないのだ。わたしがどれほどガクガクブルブルしながら企画を打ち立てて世の中に放っているのか。わたしがどれほど強固な意志で決してサイトのダッシュボード(PV数)を開かないようにしているか。わたしが毎回noteの画面を開くたびに音速で「♡」のところに手を当ててそのスキのカウントを見ないようにしているか。
わたしは誰よりも気にしいで、かっこつけで、さらにヘタレで打たれ弱いか自分でちゃんと知っているので、自分の心が折れてぺしゃんこになって身動きが取れなくならないために、いつでもガクガクブルブルしながらいろんなことを「見ないように、見ないように」しながら(笑)、ただ泣きながら行動しているだけなのだ(書いてたらなんだかおもしろいけれども!)。
なので、超絶人気のインフルエンサーさんの投稿なんかがFacebookに上がってきて「100人満員御礼でした(キラキラ)!!」とかされていた日にはその人を速攻かつ永久にブロックしますし、なんかもうそういうのは見ないのが一番!とまじで思っている。
それくらいわたしにとってビジネスや集客というのは心がボロボロになるジャンルのことなのである。ですよ。
ね?
こんなもんですよ。あくまでわたしレベルは、ですが、こんなもん。
でもとってもありがたいことに、わたしは気弱な自分を知っているし、特に恥じていないので平気でコラボ相手のゆきさんとかに「ゆきさーん、だれもこなかったらどうしよう〜」って吐露したり、つい先日も夢学でコラボしたこっしーに「どうしよー人数少なかったらー!」とやはり吐露して、もうどうにも吐露吐露しっぱなしなのだけれども二人とも「いいよお。人数は関係ないから、やることが大事なんだからひとりでもやろう!」と言ってくれるという、そういう
自分との関係性を良好にして、その鏡として他者との関係性も良好になっている。
という現実を生きられている、そのことはすごいことだしありがたいことだなあと思っている。
「みおさんみたいに自分のスキルや強みを活かしてやりがいのある仕事をして、豊かに自由に暮らしたい」と思ってもらえるのは嬉しい。わたしも最初はぼんやりとした憧れというものが初動としてあったと思う。
けれど、その自由というのはまじで安心・安定と真逆の道なのだ。わたしは明日がわからない。来月がわからない。来年なんてもっとわからない。だってどこにも属していないから、待てど暮せど仕事なんてない。仕事は自分で創り出さないといけない。仕事をして生きるという現実そのものを、わたしの内側から創造しないと始まらない。社長もいないし上司もいないし決められたいかなるノルマもないから。だから「やりたい」がないと暮せない。
内側にある本能のようなところから「充電」し、チャージされたことによって社会や現実に「放出」していくという循環のサイクルを、つまりは生命活動そのものを、自力でやらないといけない。
明日も来年もわからないといったのは、明日の自分も来年の自分も「今のわたし」のコントロールの外にあるので、とにかく想像を絶する不安定さの中に生きながら「安心・安定」を内側に作り出す必要があるのだ。
そんなん怖いに決まってる。だから怖いままやっている。何年も何年も。「こえー!こえー!」とゲラゲラ笑いながら、たまにお腹の底からひやりとしながら、今の自分と未来の自分の生命エネルギーを信頼して生きるしかない。
それが自由であり、自由にともなう代償なんだと思う。
というわけで、「怖がるな」とはいわない。怖いの知ってるし。「怖がらないメンタルになれ」ともいわない。なれないし。ただ、自分を世間や社会や世界の中に打ち出すことを多少なりともやりたいのであれば、それは「怖さ」とセットだと思うよ。
だから「怖いまま」でやるのはどうだろう。わたしはいつもそれを採用している。
たぶんあなたが見ている「いい感じのあのひと」だって、あなたとたいして変わらない。100人集められてすごい!って思ってたとしても、もしかしたら「1000人集めなきゃいけないのにわたしにはむりかも。ぴえん」ってガクガクブルブルしているかもしれない。みんなそれぞれのステージで、みんなそれぞれにふるえてる。だって人間だもの。だれだって傷つくことはいやだもの。
けれどもそこで一歩でも半歩でも1ミリでも0.5ミリでも「動く」と決めたひとにはもれなくすごいギフトがやってくる。それは満員御礼よりも収益アップよりももっともっとすごいものだ。
わたし、生きてる!という実感。
わたし、生きててよかった!という実感。
「楽しいって、こういうことなんだ」という、静かにみなぎる充足感というもので、これを味わってしまったらもう、二度と”怖いからなにもできない”という状態には戻りたくないと思うんじゃないかな。
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