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自分だけの日々を彫りつづけていけば、ある日どこかに通じて、だれかに出会う


三連休の最後の夜。

楽しすぎて、楽しいことがありすぎて、逆に困るというのが日記書きのむつかしいところだ。インプット(楽しみや行動など)がなさすぎてもアウトプット(書くこと)になりにくいし、インプットがありすぎるとそもそもアウトプットの時間がなくなる。
そして、いつの、なににフォーカスすればいいのかわからなすぎて、筆を置いてしまうのだろう。

今もそんな感じ。
今朝、早起きしてうたちゃん(高2ミュージカル少女)を誘って2回目の『インサイド・ヘッド2』を観に行ったことを書けばいいのか、その映画の映画評を書けばいいのか、お出かけの全体像を書けばいいのか。

それとも前日にハチと新しいソファーを探すべくドライブがてら東京インテリアまで行って、おいしいラーメンを食べたのちに、夜は夜で『六人の嘘つきな大学生』(浅倉秋成)を読み始めたらおもしろすぎて怒涛の展開すぎて二転三転四転五転すぎて椅子から転げ落ちながら真夜中まで一気に読み切ってしまったことを書けばいいのか。

はたまた大泉洋×宮藤官九郎で描かれたテレ朝の2時間ドラマがやっぱり予定調和をぶちこわしてくれる奇才ぶりを発揮した、ドラマでありながらもどこぞのホールで舞台として観たいくらいの作品になっていたことへの衝撃を書けばいいのか。

どれなんですかね?なにが正解?笑

まったくもって正解が見えないので、今日読み終えた、宮本輝さんと吉本ばななさんの対談本『人生の道しるべ』の中でおふたりの小説から名フレーズがいくつか引用されている箇所があったので、そして「わたし、これらの小説をすべて読んだはずなのに、覚えていないことがたくさんある!」とびっくりしたので、自分のための備忘録として引用することにする(もはや日記ではない)。

でも小説っていいものだから、ばななさんも宮本輝先生もほんとうに長きにわたってたくさんの良い作品をこつこつと生み出してくださっている方たちだから、これらの引用を目にしたどなたかが「読んでみようかな」と、その物語に出会っていくのは良きことだと思うのです。


 服は着られればいい。風呂敷は物を包めればいい。人々の生活がせちがらくなると、安ければいいという風潮が、一種の生活哲学となっていく。だが、それはやがて人間や社会からも大事な思想を奪っていく。
 「物」を見る目というのは、人間を見る目でもある。優れた「物」の価値を解せない人は、「他者」をも粗末にするようになっていくのだ。

『三十光年の星たち』宮本輝



 人はみんな、道はたくさんあって、自分が選ぶことができると思っている。選ぶ瞬間を夢見ている、と言ったほうが近いのかもしれない。私も、そうだった。しかし今、知った。はっきりと言葉にして知ったのだ。決して運命論的な意味ではなくて、道はいつも決まっている。毎日の呼吸が、まなざしが、くりかえす日々が自然と決めてしまうのだ。

『キッチン』吉本ばなな

 


「混乱することはない、流れに乗るんだ。違うことをしてしまわないように。」
 頭の中の祖父がそう言った。
「そのつど考えて、肚に聞いてみなさい。景色をよく見て、目を遠くまで動かして、深呼吸しなさい。そして、もしもやもやしていなかったらその自分を信じろ。もやもやしたら、もやもやしていても進むかどうか考えてみなさい。そんなもの、どこからでも巻き返せる。」

『花のベッドでひるねして』よしもとばなな



 サクラちゃんはローストチキンを食べ、マルゴーを飲みながら、
「ぼくは高校生のときに、人間は何のために生まれてきたのかってパパちゃんに訊いたことがあんねん」
 と言った。
 即答できるような質問ではないことくらいはわかる年齢に達していたし、明確に答えられるものでもないと承知していたが、パパちゃんは即答し、かつ断言したのだ。自分と縁する人たちに歓びや幸福をもたらすために生まれてきたのだ、と。

『骸骨ビルの庭』宮本輝



 人間は生まれた瞬間から、その人だけしか彫れない何かを彫りつづけているのかもしれない。
 いったいそれは何だろう。
 特別な能力に恵まれているとか、財力があるとかなら、その何かを形としてあらわすことができるかもしれないが、ごく平凡な庶民の女にもまた、生まれてからずっと飽くことなく彫りつづけているものがあるとすれば、それを生涯のうちで実感したり、現実に目にする機会は得られるのだろうか。

『水のかたち』宮本輝



 体はなにかを食べて栄養にしているが、魂には魂の食べ物が必要だ。
 その考えは昔に母たちの師であった高松さんから学んだが、確かなことと思う。
 もしも魂がなにも食べていなかったりえげつない食べ物でいっぱいになっていたら、結局は人間を動かす両輪の片方であるところの体が壊れるのだ。

『鳥たち』よしもとばなな



よく文章を引用するよね、わたし、と思う。

村上春樹が「翻訳は究極の精読」といっていた。
翻訳に匹敵はしないものの、わたしが好きな文章をよくこうして書き写しているのは、単に目だけでさっと読む行為とは別の、おそらく作家の方も同じようにキーボードを打ったであろうそのリズムとスピードで、手を動かしながら白い画面に文字を打ち込んでいくことで、わたしなりの精読をしているのかもしれない。

この対談本の中でエピソード的にじんとしたのは、宮本輝先生が「年に一度は必ず、全巻とおして読み返している」といって『赤毛のアン』シリーズを挙げたこと。
そういえばふーちゃん(母)がこの本が大好きで、中学生だったわたしに毎月1冊ずつ、『赤毛のアン』の本を買ってくれたことを思い出して、とってもなつかしかった。

そうか、わたしはまだしばらく生きている予定なので、『赤毛のアン』を全巻再読するというお楽しみもあるのだな。なんなら、原書に挑戦したっていいのだな。
人生は忙しいようで、そんなに忙しいばっかりじゃないし、ひまなようできっとあっという間だから、なるべく心と体と魂の滋養になるものに、触れていることがいいみたい。

そんなふうに、形になろうがなるまいが、自分だけの日々を彫りつづけていけば、ある日どこかに通じて、だれかに出会うだろう。うまいことサービスになって、お金が入ってくる、とかそんなちんけな話ではなく、ただ、自分の道を、まっすぐ顔を上げて歩んでゆくことができる。
そっちのほうがずっとずっと価値がある。

書いてみるとばかみたいにシンプルだけど、そんなことを思った。

秋の夜長にしあわせな読書タイムをお過ごしくださいな。
あんにょーん!




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