いつでも自分じゃない規格に合わせていた / 孤独な鳥は非常にやさしくうたう
わたしの8月はパリ五輪とともに終わった……と思っていたら、終わっていなかった。
思ったよりまだ日にちが残っている、8月。
それにしても暑くって、ちょっと前から体調を崩しているところ(って書くと今後お話する予定のクライアントのみなさまが心配してくださるので、えっと、ほぼ回復しております!)。
日々のつれづれを書くならば、BE:FIRST推しのうたちゃん(高2ダンス部部長)と江ノ島に行ったり、毎日部活で忙しい子どもたちのためにお弁当を作ったり、家族で草津まで旅行に行ったりと動いていたなあと思う。どの瞬間も夏らしく輝いていて、楽しかった。
けれども、この内側の大きな大きな変化をどんな言葉で表現すればいいのかわからないくらい、自己解体がちゃくちゃくと進み、毎日毎日びっくりするほどにいろいろな固定概念を手放しつづけている夏であることも、ここに報告したいと思う(なんで)。
ほんとうに心の底から、しみじみ感じる。
どうでもいいじゃん。どうだっていいじゃん。って。
これは敬愛するはっしーさんのメルマガのタイトルだけれども、わたしの第二の座右の銘でもある。
ちなみに第一の座右の銘はこちらです。
すごい、第一の座右の銘と第二の座右の銘のギャップがすごい 笑。
でも、わたしのエッセンスだなあと思う。
自己解体作業は思いのほか楽しくて、日々がゆっくりじっくり、こっくりと進む。
たとえば歩く速さについて。
なにげなくどこかへ向かっているとき、ある速度で歩いているとする。そんなときふと考える。「この速さ、このペース、これはどこ由来なのだろう」と。
もうまもなく発車する電車に間に合わせるための速さだったら、それはそれでいい。それは目的に合わせたペースだから。
けれども、わたしの鼓動のように、わたしの身体が織りなす表現としての、歩く速度だとしたら、ほんとうに心地よいリズムってどのくらいなのだろう?
そう思ったとき、なんとなく頭の中では「ぽよぽよーん」というオノマトペが響いて、肩から力が抜け、逆におなかにきゅっと力が入って、楽しげでゆったりとした足取りに変わっていくのを感じた。
まわりの、道を急ぐ人々にはどんどん追い抜かれていく。
もし10分後に発車する電車だったら、間に合わない。
音楽を聴き始めたらまた、このリズム感は変わっていきそう。
だけどいま、わたしの歩みの速度は、これがちょうどよくって、気持ちいい。
世間と比べたらだいぶゆっくりだけれど。
そんなふうにして生きていたら、これまでの自分がどれだけ「ほんのちょっとだけ」、自分でもそれと気づかないくらいわずかな部分で、無理を強いていたのか。自分に負荷をかけていたのか。いつでも緊張していたのか、が、わかるようになった。
ほんのり、いつでも、自分じゃない規格に合わせていた。
それもよかったんだけれど。それによって得たもの、学んだこと、たくさんあったから。
でも、わたしはほんとうは、とてもゆっくり歩く子だったのだなあ!と思ったら、ずっと捨て置いて見向きもしなかった、ゆっくりだった自分を抱きしめてあげたいような気持ちになった。もういいよ、って。
もういそがなくていいよ。
もうどこにも行かなくていいよ。
もう一生懸命だれかに合わせなくて、いいよ、って。
もうあなたに、知らないだれかの速さを強いたりしない。
ゆっくりゆっくり歩くあなたと、歩幅を合わせて生きていくからね、って。
とまあそんな感じで、歩く速さから、なにが好きで、なにをしたくて、あるいはなにをしたくなくて、得意だと思っていたことがほんとうはとてつもなく苦手で、でもできちゃうからやっていたことなんかをざあざあと、洗い出している(というか、洗い出されている)ところ。
おもしろいもので、ほんとうの意味でゆっくりと自分のペースに寄り添うということができたとき、スピードアップして軽やかに進むこともまた、自在にできるようになるんだけどね。
そういう法則。
いま、この夏を過ごしていて、なんの因果かこのnoteの文章に出会っている、世界で0.00000000000000001%クラスのレアなあなた。
あなたはどんな夏を過ごしているのかな?
いつか会ったときに話せたらいいですね。あんにょーん!
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