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言葉は人類に与えられた贈り物


さっきまでオンラインでのグループセッション。

たにもとゆきさんとわたしのコラボで、少人数の「自己認識のためのグループクラス」を開催している。今年で2年目に入り、2年って長そうでそうでもないっていうか、ぱっと見の変化はすぐに現れたりするけれどもほんとうの深い部分での変容というものは、じつは3年~5、6年単位でかかるものなので、ちょうどその変容のとっかかりのところが見えてきたところである。

今はタイパ重視で、ミニマムコンテンツ全盛期なので「3年から5年くらいじっくりやりましょうや」と言おうものならみんなピュッと逃げてしまうだろうけれども、逃げずにずっとこつこつと研鑽をつづけるメンバーたち。

年初ということで、それぞれに2025年という1年間に思いを馳せてもらって、言葉にしてもらった。言語化については得手不得手があるとは思うけれども、べつにじょうずである必要はなく、巧みである必要すらない。
心の中にたしかにあるその感覚、魂としかいえない領域からたしかにみえるその姿、そういったものをどうにか言葉におきかえていきたい、と脳内の使われていなかった回路が発火し、あらたな回路が生まれていくことに、意味があるのだと思う。

とあるすごい学習塾が、とにかく問題を目の前に、解答に至る道筋を「考えさせる時間」にすごく重きをおくといっていた、そんなようなこと。
いったいこれはなんだ。どういうことが問われているんだ。どうやって考えたら正しい答えを導き出せるのか。
って、思考体を活性化させることによって磨かれる知性があるし、その知性の器に応じた感性の器、身体(動き)の器とが連動していくのが人間の全体性における成長と成熟だから。

というわけで、わたしはグループセッションでも個人のコーチングでも、「考えてもらう」「感じてもらう」「それを言葉にしてもらう」というプロセスを大切に思っている。
言葉は人類に与えられたスペシャルな贈り物だから。

宇宙意識的なところが強いひとたちはおそらく、物体でいることより意識体でいることのほうが楽という感覚があるせいで、「言語化って、遅いし、限定的すぎるし、意図したようには伝わらないので使いづらくてはがゆい」と思うのだろうと思う(突然スピ)。
でも、言葉は人間らしさだし、美しい文化の象徴で、人類に与えられた恩寵に他ならない。

わたしたちは木の実をそのままもいで食べて暮らさないし、野菜を引っこ抜いて食いついたりしない。どんなに栄養価が高いとしても。
持ち帰り、刻み、煮炊きし、味付けし、調理し、盛り付けて、そして食べる。家長が取り分ける文化もあれば、自分でやる文化もあれば、目上から食べる文化もある。
人間は、栄養価を摂取して生きているのではなくて、連綿とつづく民族的・文化的集合意識を魂と心と体内に取り込むことで、はじめて人間として生きている。

わたしにとって言葉はそういうものに属している。
「わたしは」からはじまって「属している。」までを受け取るまでに、視覚的には空間を、聴覚的には時間を必要とすることが、テレパシーで秒で事足りるよりもずっとずっと美しくっていつまでも味わっていたいから、この世界にきたのだろうと思っている。


で、お仕事を終えて「風邪なのにがんばったぜ~」って思いながらリビングに戻り、何の気なしにハチ(旦那さん)の手や顔をぺたぺたと触っていたら、ん? 熱いような?
さらにおでこをくっつけてみたら、火だるまのように熱いではないか!

ちょっとちょっと!熱あるじゃん!測ってみなよ!と体温計を手渡してみたら、まさかの39.2度。ハイ、インフル~。ハイ、うたちゃん(高2娘)から移ってやんの~。
「寝苦しいです……」というので(それはそうだろう)、眠れたほうがいいかなと思いカロナールを飲ませる。
さっきまで元気にレバニラ炒め食べていたというのに、あっという間だなあ。

というわけで明日から今度はハチの隔離生活が始まる予感です。まだまだ流行っているのかな。みなさんも気をつけてね!今日、たまたま医療関係者の方に聞いたけど、基本的にはやっぱり「手洗い、うがい、こまめにのどを潤す(乾燥させない)」がだいじなんだってさ。あんにょん!


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