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「私たちは愛されている」ということを知るために


これまでにあまり直面したことのないようなことに直面していて、心おだやかではない日々が続いていた。現実的なことなので、現実的に対応できることはたんたんとやった。
また、現実の現れということは内的世界のことでもあるので、そこからのアプローチもやれることはやった。
それでもこんなふうに思わずにはいられなかった。

まだなにかあるんじゃないか、まだわたしにできることが、なにか。

その想いが、長く静かにわたしを苛んでいたと思う。

ずっとそう考えて、行為という形を模索していたとき、その話を聞いてくれていたゆきさんが自分の似たような体験を話してくれて、こんなふうに言った。

「そういうときはもう、どうしてあげることもできないんだよ」

と。
その言葉に含まれた、彼女がたくさんのことを”自分であり続ける”ために、ぐっとお腹に力を入れて、自分を通り過ぎていかせてあげたその道のりの深さとやさしさがわたしに響いて、わたしはそのときはじめて涙を流すことができた。

それは誤解だよ。苦しむ必要のないことだよ。どうか目を覚まして。

と、わたしは狂おしくしがみついていて、なんとかしたいと願わずにはいられなくて、ずっとそのことが頭を離れなくてつらかった。
どうすればいい、どうすれば、どうすればいいの、と、頭の中で何万回も問いがよぎっても、それでもわたしには成すすべはなかった。

わたしはこれまで、あらゆることを「改善」してきたのだと思う。
自分の生きにくさを生きやすくし、
子どもを愛せない苦しみを、愛することで乗り越え、
パートナーとの不仲を、神の恩寵としか思えないきっかけで生まれ変わらせた。

それをどこかで「わたしの力だ」と思っていたのかもしれない。「わたしがやったのだ」と。

けれども、きっとそれこそが大いなる誤解だったのだろうな。
わたしにそれが、たまたま起こっただけだった。
ものごとはいつもほんとうに完璧で、解釈をする余地も必要もなく、ただそのままを受け入れるだけでいいのだった。

そうだ、あらゆること、どんなことも、わたしにはどうしてあげることもできない。

そう思えて、ゆきさんの前でしばらく涙をぽたぽたと流したあとに、「そうか、だから祈るんだ」という気持ちになった。

この世界は複雑で、ひととひとは不安から妄想に支配されては比較したり競争したりして、勝手に被害者になって拒絶しあって、ひとを嫌いになっては攻撃する。
わたしがいつもどうにかしたい、と必死で取り組んでいたのはもしかしたら、この世界そのものだったのかもしれない。

負け惜しみでも、ええかっこしいでもなんでもなく、わたしはだれかを嫌いになることができない。
わたしを嫌っているひとでさえも、なんならわたしは好きなのだ。
出会って、関わって、一瞬でも人生が交差した、すべての特別なひとたちを、わたしはどうも本気で心から好きなのだ。
一緒にいたいとか、ごはんを食べたいとか、そういうのを超えて、ただそのひとが幸せだとうれしい。

だからもう、わたしは祈ることしかできないんだな、と、そのときにすとんと腑に落ちて、そして心から祈るということがいったいどういうことなのかを、ちょっとだけ理解したような気がした。

わたしと関わってくれたひとたち。
そして、もう二度と関わることのない(かもしれない)ひとたちへの祈り。


私が幸せでありますように。
そして彼女らが幸せでありますように。

私の悩み苦しみがなくなりますように。
そして彼女らの悩み苦しみがなくなりますように。

私の願いごとがかなえられますように。
そして彼女らの願いごとがかなえられますように。

私がいつでも愛されていると、知る者へと変われますように。
彼女らがいつでも愛されていると、知る者へと変われますように。


最愛の神よ、私を変えてください――あなただけが私の源であるとわかっている者に。あなたが正しいタイミングで颯爽と扉を開け放つと、私に信頼させてください。拒絶や競争、そして欠乏といった幻想から、私を自由にしてください。乞い求める必要はないと、ただ感謝して受けとればいいと知り、私が信頼と信用の気持ちで満たされますように。

『私を変えてください: ゆだねることの隠されたパワー』トーシャ・シルバー


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