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幸せになるために生まれてきたんだから、好きなことをやっていこうぜ


こんばんは。
お元気ですか?

今日は金曜日で、いまは夕方の17時前で、いつもだったら仕事をつづけるか切り上げて夕飯のお買い物に行くかの選択を迫られる、微妙な時間です。

今日はなんとなく「note、いけるか…..!?」みたいなドキドキ感とともに書いています。
noteを始めるにあたっては、自分のヴォイスを乗せるための文体というものを考えてから始めたわけなのだけれども、ここ最近はもう、怒涛のように「BE ME」というメールセッションサービスでのお手紙屋さんと化していて。
文体もなにもあったもんじゃなく、こうして手紙形式でしか書けないカラダになっております。

あれみたいですね、役作りしてて役にハマりこんでいる女優的な。
そう、わたしは女優…。

この描き口に果たしてニーズがあるのか、ていうかどの描き口にも特にニーズなんてないので好きに書けばいいだろうという紆余曲折を経て、なかなか会えないけれどもいつも会いたいと思っているよ、という”あなた”に向けて書くことにしました。

忘れずに書いておきたかったのは、玉置浩二のコンサートに行ったこと。
有明にある東京ガーデンシアターというまるでオペラハウスのような仕様の、それはすてきな劇場にて、5階のバルコニー席から玉置さんを観てきました。

玉置浩二をライブで観るのは、じつは3回目なんだよね。
特にファンというわけではないわりにはまあまあ観ているほうでしょうか。
一度目は、大昔に両国でやっていたギタージャンボリーにて。
二度目は、母が安全地帯のファンだったので、彼女へのプレゼントとしてサントリーホールでやっていた、オーケストラとのコラボレーションを聴きに。

今回もわたしがチケットを獲ったわけではなく、知人が誘ってくれたので行ってきたわけです。

なのに。なのに。それなのに。

ご本人がステージに現れて、そのキリストとみまごうような豊かな白髪を目にした瞬間から、なぞの涙が出てきまして、それはコンサートが終わるまでずっと溢れ続けていたのでした。
途中であまりにも涙が止まらないので、「俺の体内の水分、足りる?」と心配になったほどに、泣きに泣いていたコンサートでした。
こんなの初めてだったので、数日経った今でもいったいなにがわたしに起こったのかがよくわからないのだけれど。

わたしたちはこの世界を生きるときに、常になにかを纏っていますよね。
身体には衣服を纏い、頭には常識を纏い、そして心には幾重ものバリアを纏っている。だれしもがこの世界を、そうやってサバイバルしているわけです。
なぜなら、そういうものだから。
そして、わたしたちは生まれてから死ぬまでおそらく、纏わないひとに出会うことがないから。

あ、でもドイツとかに住むとちがうみたい。
ドイツの温泉(サウナかな?)は男女混浴で、全員がふつうにまっぱだかで入るそうです。それを聞いておもしろかったな。
だからドイツ人は、小さな頃から老若男女がぱーっと裸で出会う場を知っているから、自分のカラダと他人のカラダは違って当たり前。
比べるなんてナンセンス、みたいな感覚で育つのだそうです。


閑話休題。

玉置浩二はいろんな面で唯一無二のアーティストとして評価されているけれど、歌唱力とか声の魅力はもちろん、みんなが口をそろえていうのが「心に届く」「心を揺さぶられる」「心をつかまれる」という表現で。

コンサートのあと、たくさんの感想や記事を読み漁って見つけたのは、少なくない数の人々が「どうしてもたまらずに赤子のように手放しで泣いてしまう」というようなことでした。
ほんとうにね、まさにわたしに起こったこともこれで。

わけもわからずに赤子のように手放しで泣いてしまう。
これに尽きました。
いやあ、一緒に聴いてほしかったです。ほんとうに。

なぜそんなことが起こるのか、について、同行した京大卒のクレバーなF教授と語り合っていたのですが、彼は「玉置浩二は歌の力によって、人類の究極の安心感の原型である”子宮”という空間を作り出しているからだ」というのが彼の意見でした。
おもしろいよね。

わたしたちがみんな、ほんとうはいちばん帰りたい場所。
戻りたい感覚が、子宮にはあって。
玉置浩二はそれを作り出すことができる稀有な才能を持っている、と。

わたしはね、その空間的な力もさることながら、やっぱり玉置浩二の歌声の届く場所が、他の一般のアーティストの方とは次元のちがう、いわゆる「レベチ」というくらいのちがいで、わたしたちの、幾重にも張り巡らされた心のバリアをなんなく超えて、魂と呼ぶべき場所へと届くからなのだと思いました。

玉置浩二は、人類がきっと生まれて初めて出会う「心になにも纏っていないひと」なのだと思います。
だから魂だけがむきだしになる。だから彼が「愛」と歌うときそこには愛が顕れて、彼が「泣かないで」と歌うとき、わたしたちは初めて「泣いていいんだ。なぜなら、泣いてもだれもいなかった世界じゃなくて、泣いたわたしを”泣かないで”と包んでくれるひとがいる世界だから」と思えるのです。

天衣無縫という、言葉だけを頭で知っている用語を、
あのガーデンシアターではそこにある現実として、見せてもらったのだと思いました。


いろんなもの、コト、手に入れたり叶ったりすると
嬉しいよね。
でもいつも思うのは、この世とお別れするときにはなにも持っていけないよなあ、ということ。

でもね、こないだの玉置浩二のコンサートでずっと感じていたあの、胸の高鳴り、魂がたしかにふるえた感覚。
彼の歌の中に必ず出てくる「泣いているあの子」や、「悲しい目をしたアイツ」や、彼らをぜったいにひとりにしないと誓ってくれる「なにもできないちっぽけな僕」が織りなす”悲しみに満ちた世界を抱きしめて生きよう”とする人間讃歌の荘厳な美しさ。は、

わたしは天国に持っていける、って思ったの。
「ねえねえ、F教授、もしかしてこれが冥土の土産ってやつかな?」
なんて話したりして。

ほんとうにとにかくすごくてね〜。
わたしはだれかに伝えたい!と思ったときに、特定の仲良しのだれかに向かっていっぱいしゃべる、みたいなタイプではないみたいです。
書きたい、と思ってしまう。
書きながら感じて、深めていきたいと思うタイプの人間なんですね、きっと。

この動画全盛時代に、旧石器時代なみのふるさですけれど。


ああでもよかった。玉置浩二のことはどうしても書いておきたくて、でも変なこだわりがあって「書きたいことを、書きたい形で書く」ということがやりたくて、今は毎日お手紙しか書いていないせいで、その”形”がよくわからなくなっていたのですが、書き上げられたのでまあよしとしましょう。

いつでも、どんな自分でも、まあよしとする!というスタンスでね。

今夜は21時からサッカーの代表戦があって、明日は立川立飛アリーナで男子バレーSVリーグを観戦してきます。
みなさまもどうぞ楽しい週末をお過ごしくださいな。
あんにょーん✨


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