もしもピアノが弾けたなら
私はときどきクラシックを聴く。普段はというと脳裏に焼きつくくらいに流行歌をリピートしているのだが。最近は辻井伸行が演奏するラ・カンパネラによって無限に鼓膜を震わせ、電車の揺れで誤魔化せる程度にリズムをとりながら聴くのがお気に入りだ。このフランツ・リストによって作られた曲は世界中のピアニストが唸るほどに難易度が高く、素人に毛が生えた程度の私には到底及ばない領域だ。しかしその私でもわかるくらいに音と音が複雑に絡み合い、うっとりとさせるような響きを生み出している。ピアノの音色は私の心を浄化してくれるとともに「嗚呼、私もこんな風に弾けたなら」と思わせる。そりゃ西田敏行も歌うわけだ。
私は小学校入学から中学校卒業までピアノを習っていた。始めた頃はあまり熱心ではなかったが、小学校の音楽会の伴奏オーディションをなんとなく受けたことがきっかけで火がついた。純粋に努力できたという経験は本当に貴重だったと今の私を実感させる。ただ上手くなりたいと思っていた。それだけだった。「頑張れば絶対に報われる」と信じて疑わない直向きさや無邪気さは本当に尊いものである。どんなにヘソを曲げてみても、結局それが1番の近道であることが多いのだから。
ピアノは今までにやった習い事で数年続けたもののうちの1つ。しかし辞めてしまった以上は衰えていく一方だ。元から譜読みは苦手だったが、これだけのブランクがあったら壊滅的だろう。どんどん芸のない人間に成り下がる。人生を重ねる毎にあらゆる経験に揉まれていく。新たな感情との出会いの連続だ。そんな感情たちを表現できる術を失ったことを今になって痛感するのだ。自分の心を自由に奏でることができたらどんなに良かっただろうか。
ここ最近も相変わらず1人で部屋に籠っている。主に映画鑑賞や読書をしているわけだが、随分と落ち着いている気がする。映画はサブスクを漁るのも楽しいが、浴びなくてはいけない日射量が足りていない気がすることもあり、劇場に足を運びたいという気持ちもある。そして「何の本を読んでいるの?」と聞かれると「哲学者のエッセイ」と答えるしかなく、格式高い生活をしていると誤解されることに困っている。正直、私は哲学者の唱える論理を自力で正確に理解できるほど頭が良くない。誰かが噛み砕いたもので辛うじて理解できる程度のものだ。哲学書を読解してレポートを提出する授業の成績は散々だった。きっと哲学を専攻している人は『単子論』や『省察』をものの見事に読解して嬉々として議論を展開するのだろう。そんな力量は私にはない。単に死に向かうことしかできない私たちについての身近で根源的な問いに「哲学者のエッセイ」を通して向き合うしかないだけなのである。偶然に私の興味と感覚にコミットしたというだけのことである。さらに付け加えるとその「哲学者のエッセイ」を自分の生き方の中で踏襲することはできないと感じている。つまり「哲学者のエッセイ」はそこに居てくれるだけで良いのである。
1人でいると誰かを傷つけたり傷つけられることなく、凪の生活を送ることができるのではないかという原点のような気づきを得ることがある。しかし、1人で食べる弁当は味がしないことも身に染みている。咀嚼と嚥下の繰り返し作業となり、感覚としては砂を食べているのと大差ない。それでもこの間の鯖の味噌煮は美味しかったのだが。
もしもピアノが弾けたなら。言葉以外の方法で何かを表現できるなら。私はそんな日々の揺らぎを奏でたい。