昨日のラブレターを受けて
【2021/11/14 Creepy Nuts ONE MAN TOUR「Case」神奈川公演 at 横浜アリーナ】
残しておきたかった。忘れたくない。この景色を。何度目のライブかわからない。でも、これがあらゆる体験や背景を踏まえて、確実に何かが動いた瞬間だった。
毎度のごとく終演後に「いや〜今回も良かったね〜」と幸せなため息をつきながら、各々の生活に戻っていく。大半のライブをともにしている友人と「今回あの言葉を聞くためにこの場所に引き寄せられたのかも」と確かめ合いながら、まだ帰りたくなくい私たちは、サイゼリヤに吸い込まれていった。長きに渡って同じ景色を見ているだけあって、刺さるポイントがぴったりと重なって「あの頃を踏まえてあの煽りは痺れる」とか「リリース時にハマれなかったあの曲がやっと染みる」とか「この曲は正直まだきちんと実感できる段階じゃないけど道標」とか「私はあそこで沸いたけど隣で同じ反応をしている人がいて安心した」などと時間が許す限り、あれやこれやと語り合った。包み隠すことなく、人生軸を前提として解り合えることが嬉しかった。名残惜しさを残しながら家路について、ベッドの中に潜り込むことができたとき、友人から「ラブレター、noteに書いちゃった」と連絡が来た。何事かと覗いてみると、今回のライブの感想と併せて私についても綴られていた。
この友人とは、高校時代に別の趣味を介してインターネットで知り合って、初めはタイムライン上で見かける程度だった。しかし、実は互いにラジオとCreepy Nutsが好きだということに気がつき、元号が令和に切り替わった日の渋谷で会うまで時間はかからなかった。せっかくだからとプリクラを撮って「大江戸シーラン」という傍から見たら意味不明な落書きをしてゲラゲラ笑っていた。受験期を乗り越えて、時間にもお金にも余裕が出てきた私たちは、ライブにも足繁く通うようになったのである。
時間が経つごとに、燻っている私たちを支えてきたCreepy Nutsは、どんどん人気者になっていった。当然、アーティストとして目指すところであることは頭ではわかっていたのだが、祭り上げられていく彼らを、未だに教室の隅から眺めることしかできない自分と照らし合わせて、入り込めなくなっている時期があった。私自身も、ほとんど友人がいなかった高校時代に比べれば、充実した日々を過ごしていたし、「昔ほどラジオや曲が響かないのは、たりてしまったからなのか?」と思うこともあった。以前にファンレターを書く機会があり、「Creepy Nutsも私自身も次第に変化していくと思いますが、末永く寄り添っていくことができれば幸いです」と結んだものの、その実体を十分に把握できているわけではなかった。本当のところは、まったく別物になってしまったのではないかという焦燥感であったし、過去から現在の曲へとセトリが組まれていると、対比が明確で楽しくも落ち込んでしまうこともあった。武道館終わりも、友人と「やっぱ最高だったね」と語る反面、「とうとう洗練された側に行ってしまった気がする」とか「ドブみたいな心をまだ笑い話にできない私たちはどうしようか」などと複雑な気持ちを抱えて、終わりのない話をダラダラしながら遠くを見つめていた。
そんな煮え切らない時期を経て、1つの解を導き出すことができたのが今回のライブだった。彼らは完全に変わってしまったわけではなく、地続きの過去と現在の軌跡を証明してくれた。病めるときも健やかなるときも、足元を照らしてくれる存在だったのである。そして彼らを媒介として、示し合わせなくても通じ合う、ソウルメイトのような友人と、同じ分岐点で共鳴することができたのである。
ファンは、もらったものをエゴでしか返すことができなくて、勝手に解釈して自己投影する生き物だ。同時にそれが、対象を苦しめる可能性も孕んでいる。ただの女子大生が、今や1つの文化を背負っている人たちの苦悩なんてわかるはずもないのだが、いつの間にか人生に根づいて、礎となっていた。私はこれからも、懲りずに何らかの壁にぶち当たり、粉々に砕け散ることもあるだろう。しかし、都度立ち戻って、自分の目で確かめるということを辞めずにいたいと思う。