何に、火を放つ、か
もし私が『金田一少年の事件簿』で、被害者の立場に置かれるとしたら、どんな理由で殺されるだろうかと考えた。あまり深く考えないうちに「集団全体が共有する、悪意のもとに生まれた禁忌に一石を投じて、正義を振りかざすも口封じに殺される」というものが思いつき、しっくりときた。これは実際の作品にもあるケースで、「ある村でこっそり大麻を育て売り捌くことで財を成していたが、それは村人共通の秘密だった。しかし、その罪の意識に苦しみ、やめさせようとした神父とその家族が焼き払われる」というものだ。この場合は「秩序を乱さない正義」と「悪を見過ごさない正義」が真っ向からぶつかっており、私は後者を選択することが多い。つまり、圧力でねじ伏せられる側であるということである。
日常を送っていると何かと面倒なことに見舞われる。しかしそれは、その瞬間の体調やら機嫌やらで、受け流すかどうかの瀬戸際が微妙に変わるものである。その点、自分の中で善悪の基準があろうとも、自身が聖人君子であるとは到底思えない。明確な理由がなくても、感覚的な部分で「嫌だなあ」と感じることはあるもので、そうであるほど発することは慎みたいと思うのだが。
悪口と相談の境界は難しいが、なんとなくの線引きはある。例えば「ある人に怒られて嫌だった」という事実があった場合、「ある人」と「怒られた」のどちらにフォーカスするかで事態は変わってくると考えている。前者では、行動はともかく「ある人」であることが嫌だったのであり、だんだん「ある人」全体をあげつらうことになる。そして聞かされている側は、少々付き合うことはあっても、次第に閉口するよりなくなってくる。しかし、後者ではあくまで「怒られた」ことが嫌だったのであり、比較的フェアな状態で話を進めることができる。「頭ごなしに罵声を浴びせられても、叱責されたという記憶が色濃く残るだけだし、上に立つ人間ほど伝え方を工夫してほしいよね」とか「自己満混じりの説教は時間と気力が無駄に削がれるだけだし、非効率的だからやめてほしいよね」くらいの共感を示すことができる。この2つの差は大きい。大風呂敷を広げて総叩きにするのと、嫌だったことを必要部分だけ抽出して語るのではわけが違うだろう。
そして悪口の厄介な点は、背景に「できるだけ味方を増やして相手を貶めたい」という心理が働いていることだ。「ある人」の悪評を根回しすることで、悪意の渦がじわじわと広がっていき、「秩序を乱さない正義」の皮を被った確固たる集団心理が確立される。実際、それに関して「あの空気感が気持ち悪い」と漏らしたら「面白いから良いじゃん」と返されて辟易した。
私の母校は私立女子校である。偏差値は中の上程度で大学に進学する者が9割以上を占めていた。進学実績を上げたいがために効率重視のカリキュラムが組まれており、私立文系志望者は高1までに最低限の理系科目を済ませ、その後は受験科目に集中するといった仕組みになっていた。そんなわけで高2以降は、せいぜい既に習った内容をやや応用したレベルの理系授業を週に1度受けるだけになっていた。受験に使わないとあって、かなり肩の力を抜いている者が多かったが、それ以外にも看過できない理由があった。その授業の担当は、薄汚れた白衣にもっさりとした髪の毛のなんとも冴えない20代男性教師だったのである。初回の授業で教室に入ってくるなり、私の前の席に座っていた生徒が「なんかあいつキモくね?無理なんだけど(笑)」と言い出した。こういうときの拡散力と団結力は凄まじいものである。それから1年間、その教師はクラス単位の嫌がらせに遭うことになる。私自身、理系科目は苦手だったので、初めから意欲はあまり高くなかったが、悪意に満ち満ちた空間に身を置いているだけでも気分が悪くなった。バレンタインの時期に「せんせーはママからしかチョコもらったことないんでしょ?かわいそうだからこれやるよ(笑)」と潰れたおにぎりを渡されていた日には、こちらが暴れ出したくなったくらいだ。しかし、その本質に切り込んでいったら確実に殺されるのが目に見えていた。ましてや、嫌がらせを受けているのが同級生ならともかく、若い男性教師ともなると「あいつらできてんの?」と噂されかねない。担任に相談したところで、生徒のことを守ることすらままならないのだがら、別の教師に構っている余裕もないだろう。教師は日を追うごとに窶れていったし、テストの採点と実験の準備で休む暇もなかったのか、血走った目で授業をしていた。私は丁寧な字で最後の行まで埋めたリアクションペーパーを提出することしかできなかった。
結局のところ、どんなに素晴らしい正義を持っていたとしても、他人をコントロールするには及ばない。重みや方向性を均すというのは不可能で、都合が悪ければ殺されるだけの話なのだ。そうであっても、私は諸刃の剣を研ぎ続け、穿つことはできるだろうか。