N時代~説明、のようなもの
N時代のNは、今住んでいる町の名前である。
同時に、住んでいる区のNであり私の名前のNでもある。
今の家に住んで年が明ければ15年、ごく近所だった前のアパートから猫と一緒に越してきた時は、そんなに長く住むとは思っていなかった。だけどそんな何の根拠も無い思いよりも、人間は年を取ると活動的ではなくなるという事実の方が正しいのだ。
暮らしやすかったというのはある。近所に商店街はあるし、物価が他に比べて安いし、貧乏なシニア女子(言わせて。女子と…)には居心地のいい町だ。
一緒に引っ越した猫が死に、私は大病を患うも運良く助かり(猫が私の病気を持っていって死んだと思っている)、あとがまの猫に加えて会社の新業態失敗のどさくさに飼っている猫がさらに二匹増え、その会社はやめ、その後のパートはメンタル病んで強制終了。今に至る。
時々夜寝る時に死んでいくまねをすることがある。と言っても、目を閉じて息をゆっくりしていって身体から力が抜けていって、これでもうおしまい、と考えるだけだけれど。
朝起きた旦那さんがトイレの前に倒れてこと切れていた奥さん(元職場の同僚)を見つけた話だとか、年明けに急に食べられなくなって1ヶ月もしないうちに逝ってしまった友人のことなど思い出して、どんな風に死ぬのかは自分にはわからないのだな、と思う。
2年前に朝、道を歩いていて突然「あ、今これはずっと先から思い出しているのだ」となぜか思って、「今」が映画みたいにどんどん映し出されていく過去なのだと感じてからは、今を思い出しているずっと先の遠い未来は、何もかも既に終わってしまって時間も既に無いところからなのかも、などと考えたり、そうなるともうすべては完了しているので、じたばたしなくてもいっかー😆と思うようになった。
なるようになるというか、すべてもう終わっているのだ。今それを単に思い出しているだけ。気楽だね。ああ、でもだからこその。
N時代。
今私が座ってる二階の部屋のこの場所も、いつか無くなるのだ。
そばでカリカリを食べてる猫たちがいなくなり、私もいなくなり、昼間見た重機が壊していた古い家と同じようにこの家も壊されて、ただの小さな地面にかえる。
そこには何もないし誰もいない。
けれどしばらくすれば工事が始まり新しい家が建ち、新しい誰かが住むだろう。
今を思い出している中でさらに昔を思い出しているのは、夢の中で夢を見ているようなものだろうか?
どこまでも思い出せるのならば、そのフラグメント・欠片を集めていくのもまた私のN時代かもしれない。
生きる時間が終盤に入ったからこそ、なんでもないことがらが愛おしくよみがえるのかどうか?
映画が映し出された影にすぎないように、わたしたちも一瞬の影にすぎない。
いなくなってから思い出す、失くしてから気づく、そんなふうにして思い出されることだけがずっと上映されている。それをずっと見てる、ずっと先の自分。そうそう、あの時はねぇ~みたいに、ツッコミながら見ているのかな。
そんな夢の中の夢の記録を、今見てるだろう夢の記録を、綴ってみよう。
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